第4の座標系
現世利益と執着の解放
- 2010-02-12 (金)
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金銭を稼ぎたい、名声を博したい、地位を築きたいなどの執着を持っている限り、絶対安寧なる心境には到達できないとしよう。ひとえに、いかにして執着を絶ち、世界の混沌なるままでの肯定に至れるかが、人生の目的だと言えるだろう。もっとも、そのような境地に行き着いた後には、手段としての人生は確たる輪郭を既に失っているはずで、敢えて語るに足らぬものとなっているのではあろうが。
さて、このようなものとして「生きること」を捕捉する私にとって、冒頭のような現世利益を追求するという行為にコミットすることは難しい。
ならば、財産や地位や名誉なる俗物に心を動かされないかといえば、答えは否であるのがかなしいところ。多少なりとも、それらにまつわる羨望や嫉妬を生じないわけにはいかず、執着に絡め取られる。といって、執着を起爆剤に現世利益の追求に邁進できるほど単純ではない。都度襲いくる生の無意味さに一時的には圧倒される現世利益への欲望は、怠惰と無気力に道を譲る。
かくして、存在の耐えられない軽さに絶望する人間は、執着に塗れた俗人に唾を吐きながら、さりとて死に至ることもできず、己が執着に煩悶する。
さて、完きとは言わぬまでも、いくらか執着の罠を逃れているのではないかと思わしめる者に、元々は激烈な執着者が少なくないことを思う。金を稼ぎたいとか、有名になりたいとかいう欲望の達成に一意専心し、願望を達成していく中で執着が剥がれ落ちたのではないか。執着を落としてあるがままの世界を受け入れるようになるために、彼らにとって現世利益の徹底追求は不可欠なプロセスだったのではないかと、かなりの確信を持って思えてくるのである。そうであるとすれば、私はそのような俗人を嗤うことはできない。
執着を絶つために禁欲をするつもりがない私は、このままでは執着に捕まり続けてしまうであろう。であれば、いっそのこと執着に塗れて現世利益を追求してみればいい。だが、この生き方をできるかと自問したとき、私には甚だ心許なく思われる。この自信のなさは、己の能力不足を憂うことから来ているというよりは、そもそも何かに懸命になるということに無理を感じるがゆえのものだ。ちょっと私にはできそうもないし、そうではない執着からの解放の仕方があるのではないかと思われて仕方がない。巷に溢れるポジティブ言説に対して私が噛み付いているのは、どうもこのあたりの私の葛藤によるのだと思う。
そもそも、現世利益を追求することによって、むしろ執着が剥がれることをどう理解すべきか。思うに、それは己の執着を飽くことなく凝視し続けたが故なのではないか。この点で出家者のやっていることも同じで、彼らは禁欲することで己に内在する執着を具に観察しているのではないか。正面から向き合うことで、執着の実態を暴き、その空虚なることを看破しえると言えるのではないか。
内発的欲求に身を任せること―「夢を持とう」「好きなことで生きる」。あるがままに世界を承認すること―「起きていることはすべて正しい」「きっとよくなる」。
これらは、執着を剥がした結果として至れる境地であって、執着を剥がすための助言としてはあまり用をなさないのではないか。執着に捕まっている間は内発的欲求を見逃してしまうし、世界は曇ってよく見えない。
現世利益の追求や禁欲の勧めは、ひとつの処方箋になりうるかもしれない。したがって、「(内発的)夢を持とう」いう言説を誤読して、客観的評価に基づく状態を夢と規定して執着に邁進することも、プロセスとしては間違っているとは断じられない。
しかし、どちらも取れないような不純な者―禁欲するほど一途に真面目でもなく、現世利益を追求できない程度にはメタになってしまった者―はいかにして、執着に向き合い解消していくことができるのだろうか。そのような方法がありうるのだろうか。私はそれが知りたい。
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此処は仮寓である
- 2010-01-22 (金)
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年が改まって最初の記事。
グレゴリオ暦の正月に何の意味がある
などと嘯いてしまう相変わらずな私であるが、一通りのご挨拶を申し上げましょう。
明けましておめでとうございました。
本年もよろしくお願い申し上げます。
さて、来月下旬に居を移す予定がある。
都市圏を移動わけではないので、以後も変わらずお付き合いを。
現在の自宅に引っ越してきたのが2007年3月であるから、およそ3年ほど住んだことになる。
狭い部屋ではあったが、大過なく過ごすことは出来た。幸い大家さんがたいへん親切な方で、いろいろお世話になったし、またご迷惑もおかけした。有難いことだと感じている。
そんなこともあってか、思ったより長く住んだという印象だろうか・・・というのも、そもそもどれほどいるかなど考えていなかったのだが、やはりここは仮寓であるという意識はどこかに強くあったような気がするからだ。
思えば、「ここは仮寓である」という想いは、大学入学とともに上京した頃より常にあるように思う。
今の部屋に限らず、私の部屋に来た友人の感想で多いのは、「生活感がない」というものだ。散らかってはおらず、最低限の整理はしているものの、飾り気が無く殺風景。利便性や見た目の演出も含め、生活する空間として工夫を凝らすということがない。部屋の片隅には、引越しの際に使ったダンボールないしは梱包材が、そのうち使うはずだという憶測のもとに保管されたままになっている。
このような部屋のあり方こそは、「ここは仮寓である」という意識の表れなのではないか。ふとそう思った。
そして、この意識は私の実存そのものを貫いているようにも思えるのだ。
今生は仮寓である、と。
私の感じている、落ち着かなさ、居たたまれなさ、さらに言うなれば生きにくさは、これが為なのではないだろうか。そう思ったのである。
私は此処にずっといるわけではない。ひと時の間、滞在しているに過ぎない。いつでも出立できるようでありたい。早く此処での生を終わらせたい。ゆえに、社会への注力が煩わしく、諸事面倒に感じるのであろう。
では、此処が仮寓だとして、私はいったいどこに行こうというのだろうか。
この思考は、究極的な到達点を、形而上学的理想を措定してしまっているものではないだろうか。これこそは、私が忌避し唾棄してきた目的志向の罠に他ならないのではないか。
此処でいいじゃない?
此処は仮寓である。そして次に住む処も、やはり仮寓であろう。
それでも、私には“いまここ”しかない。いや、いまここでもう既に十分に満たされているはずではないのか。どんなに仮寓の形相が変わろうとも、私がいまいるところはここでしかありえない。どこかに行かなければならないわけでもない。
では、この仮寓を楽しもうか。ようやくそのようにも思えるようになって来たところだ。
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映画『仏陀再誕』を観てきた
- 2009-11-28 (土)
- レビュー
先週のことになるが、昨月公開された映画『仏陀再誕』を観てきた。
もうほとんどの映画館で公開終了しているようなので、ネタバレなど気にせずに書く。(そもそも、観に行こうと思う人はそれほど多くはないとは思うが・・・)
説明するまでもないかもしれないが、宗教法人幸福の科学の制作した映画であり、同総裁の大川隆法氏が監督総指揮をしている。
幸福の科学といえば、幸福実現党を結成し、先の衆議院選挙で全選挙区に候補を擁立したあの宗教団体である。マスコミの報道においては完全に黙殺された存在だったが、街の至る所にポスターが貼られ、街宣車や街頭演説もよく見かけるなど、(少なくとも都内では)かなりの存在感を放っていたように思う。不況や格差拡大、経済的豊かさに比して以上に高い自殺率などが社会問題として叫ばれる時世に、新興宗教の台頭を目の当たりすることは少なからぬ衝撃であった。生きる困難に直面した人々が新興宗教に縋る社会―私の印象に過ぎないかもしれないが―にどう向き合えば良いのか。先の衆院選で政権交代の陰で、私が強く関心を抱いたのはこの問題である。
今回、『仏陀再誕』を鑑賞したのは、こういう文脈においてであることをまず語っておく。
ストーリーを簡単にまとめるとこうだ。
主人公は新聞記者を目指して、新聞部で活動する美人女子高生・天河小夜子。彼女はある日突然、幽霊が見えるようになる。それがもとで、自殺した知り合いの新聞記者の幽霊に引き摺り込まれて死にそうになったところを、金髪のチャラそうな大学生の元カレ・海原勇気に助けられる。
仏教的教説で注意を喚起する勇気だったが、その忠告を聞こうとしない小夜子は、自分に突然身についた霊感の謎を探るべく、とある宗教団体の会合に出席する。だが、勇気の強引な誘導でその会合から抜け出す小夜子。事態が把握できない小夜子と、理由を説明しない勇気。そうしているうちに、その教団の教祖・荒井東作の呪いによって小夜子の弟が病に倒れる。小夜子と弟の父は、医師として全力を尽くすが原因が全く分からず絶望する。そこに現れ、弟の窮地を救ったのが、別の宗教団体を率いるイケメン青年・空野太陽。
あとは、人々を支配し服従させようとする荒井東作と、人々を救い教導しようとする空野太陽の熾烈な戦いが繰り広げられる。その戦いのスケールがすごくて、霊力や念力は序の口で、UFOの大軍やら、日本を飲み込む大津波(想念を送ることによる幻覚らしいが)やらまで出てくる。ヒロインはその美貌ゆえに、世間へのメッセンジャーとして活躍ないしは利用される。最終的には、真の仏陀を証明する闘争へと転換された後、戦いに勝利した空野太陽が仏陀の生まれ変わりとして君臨して世界に平和が訪れる、という結末。なお、小夜子は、信念を貫くことを学んだ勇気と再び結ばれ、荒井は敵だった自分を赦した空野に感服して牢獄で合掌する。
なお、空野太陽は他ならぬ大川隆法氏がモデルであり、荒井東作もまた実在の人物である某宗教団体の名誉会長をモデルにしていると思われる。
宗教団体の制作した映画なので、その主題は「当該団体の正当性の主張」であることは分かりきっている。
私の期待は、その正当性をどのような論理で示してくれるのかという点にあった。精緻な論理で神学論争を繰り広げるのか、現代思想を駆使した大胆で斬新な解釈を見せてくれるのか、ひそかに楽しみにしていたのだが・・・残念なことに善悪二元論に依拠した正当性の主張であり、信仰者の思考停止を促すものだった。
残念な点を箇条書きにしてみた。
- 正当性の根拠に「仏陀」という過去の権威を借りたこと(つまり論証を省いたこと)
- 権威付けにファンタジックな演出をしてしまったこと(現実的な説得力を持てていないこと)
- 敵役に統治権力や社会の腐敗をすえるのでなく、別の宗教団体を持ち出したこと(つまり我々の直面している問題群に立ち向かう力が見えないこと)
- しかも、最終的な主張が敵の言い分と同じく「オレの言葉を信じろ」だったこと(もはや説得力の持たせようがない)
一言でいえば、正当性の論証に失敗しているのだ。そもそもなぜ仏陀の生まれ変わりであることが正しいのかが分からないところからして問題だ。
果たしてこれで布教活動としての効果や信者の信仰心強化などの役割が果たせているのか疑問だった。この映画を観ただけで、この宗教団体が社会に広がりを見せていることについて考察してみるのは難しい。だが、信者の思考停止に基づく教導を企てている点を考えれば、警戒対象としていいかもしれない。
なお、幸福の科学の教理については作中ではあまり触れられてないので、ここでは特に議論しない。(宗教アレルギー者が多いのか、「宗教団体だから」という理由で、その言説を無定見に否定・忌避する人は少なくない。だが、我々は何らかの世界観を奉戴している以上、そのような態度はばかげている。私はそういう人がとても嫌いだ。)
さて、この作品はマジメに観る以外にも、随所に散りばめられたパロディの元ネタを見つけるというヲタク的楽しみ方もあるのだ。
ガンダム、幽☆遊☆白書、ドラゴンボール、エヴァンゲリオン、ダイの大冒険・・・
ヲタクとしては底辺の私(謙遜である)でも、このくらいは把握できたのでまだまだ仕込まれているネタはあるに違いない。何といっても声優陣が豪華なのもある。その点では一見の価値があるかもしれない。
公式サイト:仏陀再誕
宗教法人 幸福の科学 公式サイト
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趣味で誤魔化すな
- 2009-10-08 (木)
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趣味は何か、と訊かれると二重の意味で困る。
ひとつは、他人に語って聞かせられるほどのレベルに達しているほどのコミットしている何かが私には無いということ。そしてもうひとつは、一般に「趣味」なる言葉の指すものが私には存在しないらしいということだ。
前者は、他人に趣味という自身の属性として表明するならば、彼・彼女を圧倒するほどの知識・技能を有しているか、客観的にみて(多くは時間的に)多大なコミットメントがあることを示せなければならないという葛藤がある。
私には正直そんなものはない。多少は本も読んでおり一般人にならばいくらでも教説できるが、専門性を持った人の前では絶望的に己の無力さを実感するばかりで、自身の属性として堂々と表明できるものではない。
(ちなみに、普通な人の前で適当にお茶を濁したい場合は「三国志」とか「ガンダム」とか答えることがある。当然オタクを前にしたときには言わない。)
そもそもそんなに多大なコミットを要するのであれば、それは既に趣味ではないのではないか、という疑問が出てくる。この問いこそ、私が趣味を表明できない第二の理由に関わってくる。
すなわち、それほどコミットしていないものに、いかほどの嗜好が認められるのか、ということだ。他人に自信を持って表明できるほどの嗜好であれば、圧倒的な造詣の深さがあってしかるべきだろう。少しつつかれたくらいで底が知れる程度の嗜好を、どうして自己の属性として語れようか。
これは、単に一般人と私の間の「趣味」という単語の捉え方の違いではない。
一般的には、趣味と対になる言葉としては「仕事」があげられるだろう。これは食べていくための、生活の必要としての仕事であり、ここでは「労働」という言葉を使いたい。一般にいう趣味とは、この労働ありきのものであり、労働再生産のためのそれであって、日常(労働)の疲れを癒しガス抜きをするためのそれに他ならない。
ここにおいて、ご存知のように(?)生存を自明としない私はこう言いたい。趣味なんぞで日常をやり過ごすんじゃない!常に実存を賭けろ!と。
当然のごとくに自己の属性として「趣味」なる項目があることは、労働が人生の中心であることが自明であることを如実に示している。
一般人はこうも言う。「趣味(好きなこと)を仕事にするのは難しい」(仕事にしなければならないのはなぜ?)「趣味(好き)でするのとと仕事としてすることは違う」(だからどうして仕事をしなければならないのか!)・・・
ここには、労働の枷を引き摺る弱者のルサンチマンが充満している。
私は「好き(夢)を諦めるな」などという自己啓発的なことを言いたいのではない。
労働を、生活の必要を自明として生きるな、と言いたいのである。「趣味」などという括りを破壊せよ!「趣味」に安住している限り、いつか襲ってくる(かもしれない)実存の空虚さに耐える強度は、無明の闇を照らす輝きは獲得できない。
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反応と責任
再三明言しているが、「プロ意識」とか「プロフェッショナルとして」とかいう類の言葉が、私は好きではない。
プロとして(対価・報酬を得て)仕事をする以上、それは期待に見合った乃至はそれ以上の成果を挙げることを信条とする、というような意味合いを指す。それ自体は、(残念ながら?)社会のルールであるわけで、遵守しないと生き辛いという程度でのものであって特段そこに異論はない。しかし、プロ意識がとても尊いもののように扱われる場に遭遇する度に、そのような社会のルールが設定されているという世界の理不尽に屈して生きる者たちの無自覚なルサンチマンを感じずにはいられない。
ゆえに私は「プロ意識」という言葉が好きではない。
「なぜそんなに真剣にできるのか」という質問には、「プロですから」と答えるのではなくて、「そこに山があるから」と答えてほしいのだ。
好きだからやっている者の前では、プロだから(好きかどうかはともかく)やっている者は霞む。結果が具体的にどう出るかなど問題ではない。好きでやってるのであれば、泣こうが笑おうがもうそれだけで輝いているのだから。結果を見て後悔して憾みに思うようであれば、それは好きでやっているとは言わない。世間的にどんなに最悪だとののしられようと、「わが生涯に一片の悔いなし!」と叫べる者のことを言っている。
世界は理不尽に満ちている。
まったくわけのわからない結果が襲い掛かる。その中でわれわれはどれだけ輝けるだろうか。それは、この世界に素直に反応できるかにかかっているように思う。
まず、己の内発性に身を任せること。そして、その結果をそのまま受け入れること、きちんと反応を返すことだ。結果などどうでもいいという前述の主張に矛盾するように聞こえるかもしれないが、そうではない。どんな結果であろうと、それはそれで別によく、悲しければ泣けばいいし、楽しければ笑えばいいし、悔しければ歯噛みすればいい。ずっとそうしているわけもなく、そのうち飽きてくればまた次の内発性に身を任せ、そこにある山に向かっていけばいい。
目の前の事態を受け入れられず、特定の結果に固執すると、恨み妬みそして苦しみが発生する。自分の妄念に凝り固まって、世界に反応できていない。
世界は理不尽に満ちている。
ルールは社会のものであって、われわれは世界的には自由だ。自由には責任が伴うものだが、それこそが世界に反応するということだ。
内発性を発露させ好きに生きればいい。そのためには、理不尽にもたらされるその結果を受け止める責任を負うことになる。これはそれぞれ独立したものではなく、同時にしか成立しない。世界にきちんと反応を返せる、すなわち世界がどうとでもありうるということを直感的に知っている者そしてそれを受け入れる用意のある者こそが、内発性を開放できる。
責任responsibilityは、反応responseできるということなのだ。
以下は、世界への責任について描かれている素晴らしい作品。(主人公は世界に反応できていない)
チェンジリング [DVD]
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己の過誤は認めぬということか
- 2009-08-28 (金)
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今朝、駅前で自民党衆議院議員候補(現職)与謝野馨氏のうちわ形ビラをもらった。
表には与謝野氏の顔写真、裏にはご挨拶文が書いてある。
そのご挨拶文を読んで一瞬目が点になった。
以下抜粋。
私は、常に与えられた仕事を全力で精一杯やることを信条としてまいりました。
これからも、我が身を省みることなく知識と経験を生かして国民のための仕事をしてまいりたいと決意しております。
省みない、即ち反省しないのである。
これには絶句w
もちろん、1秒後に「(我が身を)顧みない」の誤記、すなわち「自分の心身を気遣うことなく(公務に尽力する)」という意図であると気づいたのではあるが。
私は別に揚げ足取りがしたいわけではない。
この誤記は、この選挙グッズの制作担当者のチェックミス(もしくは語彙力の不足)によるものだろうが、人為である以上はそういうことも起こりうるわけで、与謝野氏がそういう不遜な心構えでいるとは思わない。(ただ、重要な選挙に際して、少々弛んでいるようには思う。)
問題にすべきは誤記などではなく、挨拶文そのものだ。
「与えられた仕事を全力でやることが信条」というのはどうしたことか。いったい誰から与えられた仕事なんだというのも大いなる疑問であるが、所与の仕事をこなしていれば良い時期でないことは明白であるところに、この宣言である。
いつまで高度経済成長期の気分でいるつもりか。一生懸命やれば結果は後からついてくる時代は、とっくの昔に終わっているのだ。昨今の日本社会の問題(と叫ばれているもの)は大概、経済成長に裏打ちされていた「未来は明るい」という素朴な信仰が崩壊したことに関係している。
であればこそ、与えられたレールをただ懸命に走るのではなく、私自身がどうしたいのか、その欲望を発露させることにようやく人々の目が向きだした時なのだ。そして、そのように自己を充実させる個人が構成する社会は、経済成長による価値の先延ばしに依存するのではなく、“今ここ”で幸福を感じられるものに変化する必要がある。そんな時勢に、従来型の「とにかく何でも一生懸命にやります!」的ノーテンキな体育会系宣誓をしてもらっても困る。
たかがビラの挨拶文にここまでツッコミを入れるのもどうかとも思った。
それでも、この期に及んでこういう無内容な挨拶文を平気で掲載してしまえる現状認識の程度の低さに呆れたのである。
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