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2007-06

素手

で殺した。まだ成虫になってない小さいやつだった。
正確には素足。さすがに靴下ははいてたけど。

家に帰って靴を脱いだ瞬間に目の前をちょろちょろと動き回っていたので秒殺。
うかつなやつめ!
大きいやつは踏み潰した瞬間の鈍い感触を想像してしまって躊躇してしまうと思う。

切った

髪を。

私はあまり頻繁には髪を切りに行かない。今回は2ヵ月ぶりくらいだろうか。うっとおしくなるくらいまで伸ばしてしまう。
それはもちろん、一回カットに行くだけでも何日分かの食事代に匹敵するくらいお金がかかる、という低俗な理由もある。だからといって、1000円くらいのトコヤで安く済まそうとは思えない。普段特に気を遣っているわけでもないくせに、であるが。

もうひとつ、あまり髪を切りに行きたがらない理由は、切る前と切った後の自分という人間の不連続性が気持ち悪いからである。
昔から、散髪後というのはどうも満足がいかない。それはその都度自分の気に入らない髪形にされてしまったのだと思っていたが、この不満感というのはどこの美容室に行こうと大して変わらない。普通なら髪型の完成形を要望すればすむ話だが、そんなものが自分の中に用意されていないのだから要望の出しようがない。
言葉にならない納得のいかなさに苛々したものである。

その原因がやっとわかってきた気がする。
鏡に映る自分の姿が、同一であるはずの自分の姿が違っていることからくる違和感であったのだ。髪を切るのだから外見上変化が生じるのは当たり前すぎるほど当たり前なのだが、そこに同一性を見出す困難さに嫌気がさすのだろう。
「私は私であるはずだ」という自我が、この変化する自分を目の当たりにして、自分という存在の確固性に揺らぎを感じ取っているのかもしれない。それは「私が私であるはずだ」という自我にとっては最も認めがたいものに違いない。

以下、余談。
髪型というのは外見上の条件の中でも、相手に(自分自身にも)与える印象がものすごく強いものだと思う。少なくとも自分の場合は、相手の髪型によって抱く感情が驚くほど変わってくることが経験的に実証されている。

sunset_railway.jpg
今日は晴れた。自宅近くの踏切にて。
なぜだか、踏切って絵になるね。

世の価値観をフォーマットする

最近のテーマがこれ。

ポジティブ思考、努力開発型の生き方がよしとされる社会に生きている。
だが、本来は善も悪も、正しいも誤りもなく、それはただこの社会が何が正しくて何が尊いかを規定しているだけの話だ。価値観がそう見せているに過ぎない。その価値観に疑問を持たずに社会に溶け込んで器用に生きていける人はそれでいいだろうが、そうでない者は非難されるか独り煩悶するか、どちらにしろ生きにくい。

後者はいつの時代にもいるのだが、現在はそのような既存の価値観にそのまま乗らない人が増えつつあるようだ。大きな価値観の変容というのは確実に起こりつつあることが感じられるが、価値観を再インストールするためには旧バージョンを一度破棄し、フォーマットしたほうが良いように思う。すなわち、社会が当然とみなしていること、そんなものは便宜に過ぎずそれ自体にたいした意味はない、ということを誰もが明快に知るべきだということだ。

生きている者は死ぬ。それでいて生きている者は死を知ることができない。
この事実を覆すことが出来ないかぎり、どんな価値を置いてみたところで、それは気休めでしかない。完全な無価値観にたたなければ、人はないものを懸命に掴んで虚しさを募らせるか、掴めない苦しみにさいなまれ続けることになる。これが、価値観をフォーマットすべきだという所以である。

とはいえ、価値観がなければ人は途方に暮れる。自分で価値観を設定できる者は少数だ。
だから、本当は全く新しい価値観を提示する必要があるのだが、今のところそれは宗教を持ち出す以外の方法が私には見当たらない。しかし、神が死んだこの近代社会で、改めて宗教を主たる価値観に据えるというのは困難であろうと思う。
インストールすべきもっと新しい価値観を構築する必要があるが、さしあたっては現在蔓延している価値観をフォーマットしてやりたいと思う。

ただし、具体的方策について展望があるわけではまったくない。

しとしと降っている。

こんな日は家に籠ってしまいたいが、腹が減ってはそういうわけにもいかない。
外に出ようと思ったら傘がない。おおかたどこかに置き忘れてきたのだろう。忘れて来たことにさえ気がつかないようになったか。

当分止みそうにもないので、雨の中を推して出るとしようか。

雨に降られるのは嫌いじゃない
とか言いたいけど(そんなこと言ってそうなキャラでもあるけど)、部屋に戻ってからが面倒なのでやはり濡れたくはない。それでも、この空腹にはかてない。

そう、今日久しぶりに体重を量ったところ、さらにやせていた。そぎ落とすものなどないというのに。
それでも健康を維持している丈夫な身体に感謝したい。明日のランチは独りうまいものでも探しに行こうか。

hydrangea.jpg

モデリング

安易な人マネはしないことを信条としている私だが、様々な言動を他人から習得していることに気づく。いわゆるモデリングというやつだ。

モデリングについてはこちら

どんな言動をモデリングしたのかを思い出してみると、なかなか面白い。その当時「かっこいいな」と思ったものを無意識的に取り込んでいることがよく分かる。
以下、すぐ思いつくものを羅列。誰から盗んだのかもいくらかは分かる。

・やたらとかかとの磨り減る歩き方
・抽象論を語りだすときの(わりと無意味な)右手の動き
・かつては気取っている印象が強くて使えなかった「美しい」「素晴らしい」などの言葉の多用
・強調されたハネが特徴的な筆跡
・顔を左に向けて肩をすくめてする自嘲

私は、単にその言動そのものが美しく見えるからという理由でモデリングはしても、対象とする人と同じ結果が得たいからという理由でのモデリングをしたくはない。

夢・希望・願い・祈り

著作権侵害に当たらない正当な引用の範囲に該当すると思われるので、私の気に入っている歌詞の一部を記載しよう。

夢・希望・願い・祈り・そんなものが
愛しあえた二人を別つこともある

  GARNET CROW 『廻り道』 (詞:AZUKI 七)

死は必ずしも否定的な意味ばかりでないように、別れもまた決して忌むべきものでもない。

別れは、ともに生きることの合意が得られない結果としての選択であると捉えられがちだ。だが、誰もが各々の幸福を模索して生きているかぎり、ともに生きることを已めるというのは十分に考えられる決断である。そしてそれは、ともに生きるという決断と同様に、双方の合意に基づいたものであるべきだろう。

各々の幸福の追求は肯定せざるを得ないものだが、お互いが愛しあっているからこそややこしい。別れという決断を導き出すのは、単なるエゴなのではないかと。
もちろん、そこに既に愛がないから、エゴが頭を擡げる場合も少なくはない。たが、愛があっても人は前向きな幸福追求のために別れを選びうる。それをエゴと呼ぶこともできようが、だからといってそのエゴを否定できるのだろうか。
あるいは、それはもはや愛しているとは言わないのだろうか。

私はこの歌詞を聴くと、ポルノグラフィティの『サウダージ』(詞:ハルイチ)の一節を同時に思い出す。

私は私とはぐれる訳にはいかないから

エゴであると知りながらも、私は自分の幸福を追求する姿勢を肯定したい。
その結果生じた別れが、心痛むものであっても、私は肯定したい。

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