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2007-08

注の注

なんか間抜けな感じがするけど、先の記事「悲劇に悪役は要らない」になぜわざわざ注をつけたかを補足。

人という存在が元来救いがたい悲しみに満ちていることを表明したかったのであり、自らの力と意志で及ぼすことの出来るものは限定的だと訴える文章であったからです。
何より、悲しみに遭遇した者の嘆きと誤解され、単なる同情として読まれてしまう虞を懸念したために付けた注釈なのです。

そして、悪役のいない悲劇とは、ギリシア悲劇の代表作として名高い「オイディプス王」を想定しています。

悲劇に悪役は要らない

たとえ全ての人が善意で動いていても、
人は悲しみに絡め取られ得る。

いっそどこかに悪意が潜んでいたなら気が楽だ。
それを叩けばよい。叩けないなら憎むだけだ。
しかし、どこにも悪意がなくても悲しみは襲ってくる。

我々はどうすれば良いのか。
悲しめばよいのだ。
我々にはただ悲しむことしかできない。

たとえば、人は死ぬ。
誰に殺されなくても、人は死ぬ。
それは悲しみである。

そこに憎むべき悪意はあるか。
悪役はいるか。
いるとすれば、死にゆく存在として人を作り出した神か。

神を憎むか。
それもいいかもしれない。

悪を憎む心も美しい。
だが、悲しみは悪に先立つ。
悪を憎むことも悲しみである。
神を憎むことが、悲しみでなくて何であろう。

ならば、私は悲しむ。
私にはただ悲しむことしかできない。

パソコンに詳しい?

という質問は、質問者がパソコンに詳しくないということ以外の何ごとも示さない。

質問者が考えているところの「パソコンに詳しい人」は、自分のことをパソコンに詳しいとは絶対に言わない。
それは、知れば知るほど自分がその分野について無知であることに気付くという類の理由もあるにはあるが、それよりもパソコンに関する技能や知識は「パソコン」というカテゴリーで括ることがナンセンスであることを知っているからである。

そんな枕詞はいらないから、聞きたいことがあるんだったら具体的質問から始めてくれ。期待に応えられそうかどうかは、それから判断するから。

ここ数日の雑感

12日
大学時代の友人らと飲む。
社会を半分捨てている身分で、皆の会社生活を聞いたり。みんな頑張ってるね、良いと思う。
そのこと自体からは変な不安に襲われなかったのは、解脱(?)が進んでいる証左だろうか。
しかし、メタトークの出し具合は必要以上だったように思う。
そのまま、ノートPCを抱えてムーンライトながらに乗り込む。そろそろ18切符は使いたくないんだけど・・・資本主義を脱せないことを改めて実感。生きにくい・・・この夜の実感としては、寝にくい。

13日
久々に大垣ダッシュ(この日、この言葉を初めて知った)を経験しながら京都着。
某ミーティングに参加。とてもとても充実した時間を過ごせた。話すことは尽きない。
没入できるものを持つことは幸せなことである。
その後、昨年辟易するほど利用した新大阪へ。
誰か知り合いに遭遇したりするんじゃないのかとも思ったが、
そんなイベントが発生することもなくムーンライト九州に乗車。一路西へ。

14日
辺境(山口県某所)のイベントに参加。
僭越ながら講演的なものを行わせて頂いた。自己評価は75/100点くらいだろうか。
この日はかなり疲れた。喋ったことよりもむしろ連日の長時間移動が原因だ。

15日
実家に帰省。
盆を狙って帰る必要性はどこにもないが、上記の予定が入ったためついでに帰省。

16日
持ち帰ったノートPCで、暑い中で高校野球を見ながら仕事でコーディング。
デュアルディスプレイに慣れた身で、ノートPCで仕事をするのはなかなかに苦痛。
高校野球を観た後にプロ野球を観ると、緊張具合が違っていて面白い。やる気がないんじゃないかと思うくらいだが、プロは毎日やってるんだから、高校球児みたいに懸命にやってたらとても身体が持たんから当たり前か。
だからこそ、高校野球は観てて面白いのかね。
熱闘甲子園を観ていて、野球はドラマ仕立てにしやすいスポーツだと思った。

17日
高校野球を見ながら読書。某会のためのレジュメを作成。
と思ったけど午後からは暑さに負けて昼寝。
あ、墓参りしてねぇ。仏壇には参ったけど。
帰省するたびに思うこと:飯がうまい。

18日
帰京予定。
帰りは空路ね、さすがに。
SFJじゃなくてJAL。株主優待券使用。つっても、今は株主じゃないけど。
そういえば株が暴落してるね。嘗てすこし齧って自分には株取引は向かないと思ったので、今はせいぜい株主優待を受けるぐらいの目的でしか取引しないことにしている。社会的価値を超越してしまった人間が、株なんかに興味を持てるわけがない。

この世の悩みがゼロになる

本書の内容が本当に身についてしまえば悩みはゼロになると思われる。誇張表現ではなく。
原理的には、間違いなく悩みがゼロになることが書かかれている。だからといって、容易にその域に達することができるわけではないのが人間だけども。

「方法」を説いているわけではないため、「実行するのが難しい」などというレヴェルの話ではない。そもそも、そういう考えすなわち「悩みをゼロにしよう」という意気込み自体が悩みなわけである。

そう気づかされたので、他のどんな自己啓発本も一切必要ないだろう。

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嘔吐

私の実存体験は15年以上前にまでさかのぼる。
人生は苦しいものであるという前提のもとに、
自分が、ここに、こうして、生きて、存在する、ということの虚しさに苛まれていた。

そうして投げかける問いは「自分がいなかったらこの世界はどうなっていたのか」ということである。
自分がいなくても、おそらく世界はこのままだ。
私がいないことを当然のこととして、家も学校も動いていくだろう。
「では私が住んでいるこの地球がなかったら宇宙はどうなっていたのか」
おそらく広大な宇宙は、小さな地球という星があろうがなかろうが、
大差なく動いているだろう。

「では宇宙がなかったらどうなっていたのか」
この問いを発した瞬間に、私は全身の毛が逆立つような空恐ろしさを覚えた。
当時の私にとって、宇宙というものが全ての存在を内包するものであった。
その宇宙が存在しないことを想定することは、存在するものとしてある私には不可能なことである。

何も存在しない、という状態。
それに想像力を向けた瞬間に、存在するあらゆる事物がその意味を失った。
何もないとはどういうことか、を考えた瞬間に、それでもただ在るだけのこの世界の存在が迫ってきた。

小説の評というのはあまりに難しいので、以上私の体験を述べてみた。
作中の主人公ロカンタンの実存体験から、私も嘗て感じたその感覚を思い返しながら読んだ。私の場合のそれは吐き気としては襲ってこなかったけれど。

街中やカフェにおける民衆の描写を読むにつけ、サルトルの「お前らとは違うんだよ」という意図がありありと窺える。
あらゆる意味の欠落を目の当たりにしてしまった者にとって、生きることに対する惰弱さはぬぐいようもなくなる。没入して生きる人々との違いを明白に感じていながら、それを示すものがない。
彼らとの違いを示せるものを欲しているのだ。私にはそう思えた。

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