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2007-10
世界遺産に響くHoly ground
- 2007-10-21 (日)
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20日(土)、京都は仁和寺でGARNET CROWのライブに行ってきた。
人に見せるためのレポートではなく、自分の感動の備忘録として記憶の新しいうちに所感を書き留めておこう。
今回は平日にもかかわらず前日に現地入り。
雨の降りしきる中、一人で京都を見物。観光を敢行。
銀閣寺、南禅寺あたりを見て廻るも、雨中を歩くのに閉口し、午後はカフェで明日の空模様を心配しながら軽く読書。
その後、大阪へ移動。かつての同僚と久々に杯を交わす。袂を別ってからもう10ヶ月以上になるが、翌日も出勤だという忙しい中、お気楽にぶらりと立ち寄った私の相手をしてくれた皆さんに感謝。
明けてみれば、気持ちよく晴れていた。
再び京都へ。京都駅で友人と合流。昼食。
その後、早々と目的地の仁和寺に到着。
既に境内には会場設営がなされていた。ひときわ目を引く二王門をステージの背景に使っているのは美しい。
少しだけグッズを買った後、ちょうど境内で開催されていた名宝展が見たくなったので、独りで拝観することにした。ライブまではまだ十分に時間があるのでゆっくり観ていると、ステージではリハーサルが行われたらしい。名宝展の建物内にもその歌声が響き渡る。
まさか阿弥陀仏像を前にしてHoly groundを聴くことになろうとは思わなかった。しばし恍惚に浸る。
そんなこんなで日も暮れて次第に寒さの増す中、一旦境内から追い出されて開演を待つ。
いざ開場されて座席に着くと、感動的なほどステージに近い。もちろんチケットの座席番号から位置は把握していたが、実際に入ってみるとほぼ中央だったこともあり、今までで最高の座席位置に心躍る。
以下、冗漫に述べると野暮なので、実際のライブの感想。
・前の観客の頭に邪魔されることなく、中村由利さんの全身が見える。表情まで、肉眼で確認できる。
・今までにない柔軟なMCで楽しい。
・サポートメンバーがやたらノッている。とても楽しそうで良い。
・照明や舞台演出にかなり力が入っているのが分かる。
・吹き抜ける風も、偶発的な良き演出効果を伴っていた。
・門の上に終始、月が輝いていた。
というわけで、今までのGARNET CROWのライブのうちで最高に楽しいものだった。しかも、今までで最高の座席位置だったのは、僥倖であると思う。
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ネバネバ
- 2007-10-17 (水)
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久々に風邪らしきものをひいた。
今回は喉にきている。(数日前は洟だったが)
そして、痰が絡んでいるのにもかかわらず、納豆を食べた。我ながらまぬけだと思う。息苦しい。
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他人を変えたい
- 2007-10-14 (日)
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未来と自分は変えられる。
過去と他人は変えられない。
と、よく言われる。
変えられないものに拘泥するより、変えられるものに焦点を当てて働きかけたほうが生産的だよ、という言説。
いや、全くその通り。私も常々そう思って生きている。
だから、やせ我慢でも何でもなく、他人を羨ましいと思うことはほとんどない。絵画や音楽など、芸術的素養に溢れる人に若干の嫉妬を覚えるくらいだろうか。
過去を悔いることもない。嘗ての大失態をふと思い出しては独り愧赧することはあるものの、「過去に戻れるとしたら、いつをやり直したいか」という問いには答えを持たない。
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恣意性への抵抗
- 2007-10-10 (水)
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私が抱き続けている気持ちの悪さの一つは、人間社会の秩序の必然性のなさなのだ。それを感じ取ってしまう私に”世間一般”の生き方が出来るはずもないのである。そう、まさしく必然性のない”世間一般”の生き方が。
と思ったが、この気持悪さは尾崎豊が叫び、大勢の若者が共感した類の感覚でしかないことに気づくに及んで、自分のエリート主義に虫唾が走る。私はせいぜいその気持悪さの正体を感覚的にではなく、理性的に理解したに過ぎない。
この感覚はきっと特別なものではない。
だが、彼らがいつしか社会に馴らされ、あの気持悪さを消化していくのに対して、言語化された私の違和感は鮮明さを増す。
ヒトが自然界の整然とした秩序に、追放された楽園に戻れない以上、この必然性のなさは何としても解消されえない。ヒトは「とりあえず」の決まりごとで進むしかないのである。であるならば、その恣意性に馴化してしまう方が生き易いに決まっている。
「仕事」をすること(多くは会社勤め)で何らかの拘束を得る一方で、生存の糧としての金銭を得るというシステムそれ自体に、先験的な気持ちの悪さを感じないのであれば、そういう”世間一般”の生き方を選べば良い。あとは自分の趣向で「仕事」と「プライベート」のウエイトを考えれば良い。
そうではあるが、馴化した方が(無論、生きる上での労苦はあるが)容易であるのは分かってはいるが、人間社会の秩序に収束されない意味付けを持ってしまった私は、それを無かったことにはできないし、したくもない。いったい私はどこに行けばいいのか。
「そんなことを考えても仕方ない」という非難を、実に真っ当な非難を真正面から受ける方向にしか道はない。私の足は既にそちらを向いている。仕方がないかもしれないが、考えてしまったことをキャンセルすることはできないのである。
「ねぇ、どうして人を殺しちゃいけないの?」
この疑問を持ち続けたまま大きくなった幼児は人間社会では生きていけない。
どうしてもこうしてもない。”この”社会ではそうと決まっているのだ。
そうと決まっていることを身体に染み込ませることを大人になるという。
“この”社会が恣意的ながらもそうと決まっていることを理性的に理解した大人な幼児は、もっと他のありえる社会の秩序を想像する。
少数いてもいいのだよ、こういう奴が。そう思って頂きたいものだ。
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楽しい日々は小説にはならない
- 2007-10-10 (水)
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苦痛や懊悩、狂気は小説になるが、楽しい日々は人に聞かせる物語にはならない。単なる自慢か惚気にしかならないからね。
ここのところ、小説が書けそうなほど悶々とするドラマティックな日々を送っていたのだが、これは小説を書けそうだと思いたった途端、なんだか楽しくなってしまい文章が頭の中を踊らなくなった。
思考がメタすぎて、いまいち悲劇の主人公にはなりきれない性格らしい。
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母性愛と猫、父性愛と犬
- 2007-10-07 (日)
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猫は猫であるだけで愛される。
陽だまりであくびでもしていれば可愛がられる。
犬はしっぽを振るから愛される。
投げたものを拾ってくるから可愛がられる。
引っ掻く猫を抱こうとする人はいるが、吠える犬を撫でる人はいない。
マテのできない犬を叱る人はいるが、猫に芸を仕込む人はいない。
犬は役に立つことを求められるが、猫は役に立つことを求められない。
犬の留守番は仕事だが、猫の金招き・人招きは仕事ではない。
役に立つ犬(警察犬・盲導犬)は人間に訓練されているが、
猫が役に立つ(ネズミ捕り)には訓練されていなくてもよい。
猫への愛は無条件の愛である。
犬への愛は条件付の愛である。
私は猫が好きだ。
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