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2007-10
トーキョーが発掘される日
- 2007-10-05 (金)
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たとえば出土品や古文書などから、我々は古代に其処に生きた人々の文化を知ることができる。
建築や文物から、その土地その時代に特徴的な意匠をみて、当時に思いをはせるのである。
だが、地球上での空間的隔絶が取り外された近代以降、世界中の文化が複雑に往来している社会はどのような特徴を持つものとして捉えられるのだろう。
近代的な高層ビルから遠くないところに、木造の神社仏閣が構え、そうかと思うとイオニア式の建造物が脈絡も無く出現したりする。都市景観という視覚的なものからして、様々な文化が混じりながらも融けあっているとは言えないモザイクな状態を、一つの文化として理解する作業はとても苦しそうな気がする。
ずっと後代の人々が現代を考察する場合、あるいは人間でないかもしれない知能を持った生物が発見した場合、彼らはどう理解するのだろう。少なくとも我々が、古代の諸地域の文化を理解(というか納得)しているように理解できるものではなかろう。
などと要らざる心配をしてみる。
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なぜ生きる
- 2007-10-05 (金)
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親鸞を開祖と仰ぐ浄土真宗の布教本。
前半部分は、生きる苦しみの根源とは何か、そして「なぜ生きるか」という人生の目的を見出すことがなぜ必要なのかについて理路整然と説いてくれる。
「なるほど、人生の目的が必要なのだな。じゃあその人生の目的とは一体何なのだ?」
と思わせておいて、結局その「人生の目的」が一体なんなのかが分からない。
書籍ではとても説明しきれない、ということなのかもしれないが、核心であるはずの部分なので、釈然としない。
後半部分は親鸞聖人の生き様を中心にかかれており、浄土真宗の宣伝と化している。私にはそのように感じられ、残念であった。
ただ、「人生の目的」という漠然とした命題に対して、思考プロセスがよく整理されている点は、読み応えがある。
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整理せずに
- 2007-10-03 (水)
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部屋の話ではない。頭の話だ。
(私の部屋はわりかし片付いていると思う。)
知識を臨機に有効的に引き出せるようにと、頭の整理をしたいとよく思う。
ここ半年近く、お気楽な在野の身分で以って、種種の書籍を濫読し、絶えず思索を展開し、えらそうに議論を飛ばすことを続けていると、少しぐらいは知識の幅が広がったような気がする。だが、いざどんな知識を得て見識が拡がったのかと自問してみると、学んだつもりでいる理論やら思想やらのタイトルを羅列するばかりで、その内容を辞書的に解説できるかどうかさえ怪しく思われるのである。
飯の種になる当てもない知識ではあるが、せっかく摂取しているからにはいつでも自在に引き出せるようにしておきたいと思う。知識のひけらかしは愚の骨頂であることぐらい重々承知の上であるが、いつでも披露できる程度には武装しておきたいと思ってしまう、卑小なる虚栄心が存在することを認めずにはおれない。そんな虚栄心を満足させるに留まろうとも、この思索の日々が全くの無為ではないと納得させられるだけの精神衛生上の効果があるならば、別に罰は当たらないだろうと考えてみる。
そこで頭の整理をしたいと思うのだ。
だが、部屋の整理ならいざ知らず、頭の整理というのは得てしてうまくいかない。
各情報をきれいに分類してフォルダごとに格納しようとするのだが、うまく分類しきれるものではない。分類不能と判断された情報は「その他」フォルダに投げ込まれるのだが、これが肥大化していって分類の体をなさなくなる。そもそも知識を有効単位に分割しようとすること自体がとんでもない愚挙なのである。
フォルダ分けよりもうちょっと有効そうな情報の整理方法はタグ付けなのだろうが、タグ付けられる要素もタグそのものも頭の中では同じ記憶情報なのであるから、覚えることが増えるだけであって検索に有効に機能するのを想像するのは難しい。
そんなこんなで投了してしまう。
要は完璧を求めようとし過ぎるのだ。
その完璧主義ゆえに、整理がきちんと完了するまでは新たな知識収集をストップさせてしまう。仮に整理がうまくいったとすると、その整然たる秩序を崩したくないがゆえに、新たな知識が闖入することによるカオスを厭がって、これまた収集のペースが落ちてしまう。
というわけで、ここは自分の脳の検索能力を信頼して、しばらくは雑多に知識を投げ込んでいこうかと思っている。そうすれば、思わぬところで線が繋げるかもしれない。
何より、自分の頭の中を掘り返していると、発掘できるものが少なすぎて愕然としてしまう。別に締め日があるわけじゃないんだから、意欲の喪失を招いてしまう棚卸しは後回しだ。
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要求などしたくない
- 2007-10-02 (火)
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私は金銭を請求するという行為をしたくない。
金銭を請求するということは、それに見合っただけの責任を果たさなければならない。責任を追及されるぐらいなら、私は請求したくない。
労力を出し惜しむつもりはない。誰かに喜んでもらえるのなら、否、私の喜びに繋がりうる他人の喜びのためなら、犬馬の労を厭うものではない。だが、自分がどんなに大きな価値を提供しえたと感じても、その対価を請求することはできない。
それは金銭を要求することに対して抱いている罪悪感でもある。そして何より、対価を要求することによって発生する責任に縛られてしまうことへの恐怖を伴った忌避である。
だから私はやりたいようにやる。私が成したことであなたが効用を得られたと思うのなら、その分の金銭を払ってくれればいい。価値なしと見るのなら、それも良い。あなたは金銭を払わなければ良い。いずれにしろ、あなたは私に注文をつける権利を有しない。
とまぁ、これが理想形ではある。
アーティスト的な生き方で、全くありえないわけではなかろうが、実現は困難だろう。私はそんな夢見がちではない。たとえその域に到達するにしても、それまでの過程というものがある。自分の仕事に価値を認めてもらうまでの過程が。
自分の価値を認めてもらうためには、主張する必要がある。自分の価値を主張する?反吐が出る。さっきから言っているが、死んでもやりたくない類のものだ。
私は縛られたくない。ゆえに要求したくない。
だが社会は、生きていることを理由に税という名の責任を追及する。道徳は、これまで無自覚的に養われてきたことを理由に「社会の役に立て」と要求する。
「生存さえも要求しないから、俺に何も要求しないでくれ」と叫ぶ者に、社会は何と答えるだろうか。おそらく何も答えはしない。叫ぶ肉体を持っていることを以って、相変わらず「働け」という要求を続けるだけであろう。
労力を出し惜しまない、というのは嘘だ。
結局のところ、私は好きなこと以外をしたくないのだ。我慢できる範囲のことしか、したくはないのだ。我儘を正当化しているに過ぎない。甘ったれていることぐらい自覚している。
社会に反した思考について思考していることに対して、社会常識を照らし合わせて糾弾するのは意味がない。「なんで俺は好き嫌いが多いのだろう」と考えている人間に、「好き嫌いせずに食え」と言っているに等しい。
さて、一見救いがたいこの思考のどこが間違っているのか。どこに解決を見出せるのか。長くなったので、それは次に回すことにする。
(こうやって続きがあるように書いておかないと、「ふざけるな」と咆え出す社会化された没入人間が多くて困る。実際、続きを書くつもりはあるのだが。)
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迫り来る列車
- 2007-10-01 (月)
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線路の上に立っている。
単線ではない。平行に10線以上は走っている。
平行とは言え、ところどころ分離したり合流したりしている。ポイントもある。ホームのような台も見える。
向こうから列車が走ってくる。自分が立っている線を走っている。このまま立っていると確実に轢き殺される。横に避けようとすると、逆方向からやって来る列車を認める。
その列車の乗っているレールは手前で分岐している。どっちに避けてよいものか迷う。
線路群の外に出ることなど思い浮かばない。ホームの上ならば安全であるはずだが、よじ登っているあいだに撥ねられかねない。
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