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2007-11

世界はまわると言うけれど

フリークが何を言っても大して意味のある評にはならないんだけど、うん、最高だね。寒くなる季節にぴったりの人恋しくなるメロディーだね。そして歌詞もいい。

まわり続ける世界と、それに同期していない私の存在。浮遊している自分を見つけたときの、恍惚に似た違和感。
高層ビルの展望台から大都会の夜景を眺めているときに感じるあの感覚に近い。この街の光の一つひとつに無数の人の営みがあって、ごく一握りの人の思惑と大勢の人の汗によってこの景観は成り立っていることに想いをいたす。
私だってこの街の一部に組み込まれていることに間違いはないんだけど、こうやって高いところから俯瞰していると、今後この光の束の礎の一つを担わなければならないことに全く実感が伴わない。私だけは特別で、いつまでも高みから世界の移ろいを傍観していたい想いで満たされる。
それは社会の苦役からの逃避願望とは違うもので、まさに窓の外を見ているように世界がガラス越しにしか感じられないという、とても穏やかな空虚感。別にそれが嫌いなわけでも、寂しいわけでもない。繋がりが欲しいのではなくて、むしろそんな浮遊している自分に酔っているという感覚。夜景というのは遠くから眺めるから美しいのであって、そのなかに没入しても楽しくなさそうな気がするのよね。

そんなわけで、歌詞カードの背景写真のチョイスはぴったりだ。この写真は新宿だね、おそらく東京都庁の展望台から南の方角を撮影したものだと思われる。
もっとも、新宿の灯は空が明るくなるまで消えることはないけどさ。

あと、ジャケットの由利さんは、後れ毛最強な髪型。これは狙いすぎだと思う。

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大好き

とても秀逸な記事↓
引きこもりでも知っておきたい世の中のアルゴリズムx3

日経新聞なんぞ見ない私が、いつもチェックしているニュースサイト。
今日の記事はとても気に入ってしまったので、思わずご紹介。

今さらだけど、いつもここからのアルゴリズム体操の歌詞も、アイロニーが利いててなかなか良いよね。

周の幽王を

責める気にはなれない。
彼の気持ちが実によーーく分かるような気がしてしまう今日この頃だ。

それはいい。
ここのところコーヒーの消費量が尋常ではない。別にカフェインの効果に期待しているわけではなく、長時間モニターに向かっていると口さみしくなってくるだけだ。寒くなってきたから熱い飲み物が欲しくなるというのもある。
私はコーヒーは常にブラックで飲む。滅多に砂糖を入れないのは、コーヒーに溶かし込むのを眺めては、これだけの分量を体内に摂取することを思うととても身体にいい気がしなくなったからである。ミルクはもともと嫌いではないので使わない。

それにしても、コーヒーの苦味を楽しんでいると、どうしても甘味が欲しくなる。いや、甘いものをより一層美味しく頂くためにコーヒーを淹れていると言ってもいいかもしれない。
それのみを賞味しているのなら、砂糖を大量投入した甘ったるいコーヒーも良いだろうが、甘い菓子を片手に飲むならブラックであるべきだろう。

結局のところ、コントラストが大切なのだ。って何を言ってるんだろうね?

SOS

ライトノベルというものを初めて読んでみた。

オタク研究の一環として、彼らが消費している作品群から感じとっているリアリズムとは何なのかについての理解を深めるために、とりあえず涼宮ハルヒを読んでいる。借り物だけどな。

で、なんか面白いんだけど、これ。
・・・どうしよう。

高層ビルから街を灯りを見て想うこと

GARNET CROWの新曲「世界はまわると言うけれど」が届いたのでエンドレスリピート。
フリークが何を言っても大して意味のある評にはならないんだけど、うん、最高だね。
寒くなる季節にぴったりの人恋しくなるメロディーだね。そして歌詞もいい。

まわり続ける世界と、それに同期していない私の存在。浮遊している自分を見つけたときの、恍惚に似た違和感。
高層ビルの展望台から大都会の夜景を眺めているときに感じるあの感覚に近い。この街の光の一つひとつに無数の人の営みがあって、ごく一握りの人の思惑と大勢の人の汗によってこの景観は成り立っていることに想いをいたす。
私だってこの街の一部に組み込まれていることに間違いはないんだけど、こうやって高いところから俯瞰していると、今後この光の束の礎の一つを担わなければならないことに全く実感が伴わない。私だけは特別で、いつまでも高みから世界の移ろいを傍観していたい想いで満たされる。
それは社会の苦役からの逃避願望とは違うもので、まさに窓の外を見ているように世界がガラス越しにしか感じられないという、とても穏やかな空虚感。別にそれが嫌いなわけでも、寂しいわけでもない。繋がりが欲しいのではなくて、むしろそんな浮遊している自分に酔っているという感覚。夜景というのは遠くから眺めるから美しいのであって、そのなかに没入しても楽しくなさそうな気がするのよね。

そんなわけで、歌詞カードの背景写真のチョイスはぴったりだ。この写真は新宿だね、おそらく東京都庁の展望台から南の方角を撮影したものだと思われる。
もっとも、新宿の灯は空が明るくなるまで消えることはないけどさ。

あと、ジャケットの由利さんは、後れ毛最強な髪型。これは狙いすぎだと思う。

蜃気楼モデル

ニーチェが喝破したとおり、近代に入ってから、それまで天にましましていた神は死んだ。それはかつて太陽のように、天上から我々を照りつけ、その影をはっきりと浮き上がらせることによって我々自身の確かな存在を担保してくれていた。
だが、もうその光はない。我々は影から自由になることができたが、それゆえに自分の存在の根拠を失ったことによる不安を抱えなければならなくなった。「ナゼ私ハ此処ニ生キテイル」のかが分からない不安である。

だが、その問いに答えてくれる神は死んでいるのである。そして、それははるか前方に「明るい未来」という名の蜃気楼となって立ち現れた。
神の呪縛から解き放たれた我々は、いっせいにその蜃気楼に向かって走り出した。走っていなければ、いつ存在の根拠の薄弱さゆえの不安に襲われるか分からない。立ち止まれば自分の影の無さに怯えるほかない。ただ前方の蜃気楼を、未来を夢見て走り続けなければならないのだ。

現存在の根拠への疑問は、未来に向かっての上昇によって無化されている。
「ナゼ私ハ此処ニ生キテイル」のかは分からなくても、未来にはより明るい生活が待っていることが確信できれば、とりあえず人は生きる活力を得られる。言うまでもなく、それは問題を先送りしているに過ぎないのだが、それでも永久に先送りし続けている途上で死ねばそれでハッピーということにしているようだ。
人生の目的は成長とか発展であるとぬけぬけとのたまう言説を聞くや。成長・発展はそれ自体、到達できるものではありえない。振り返れば「した」ということが確認できるだけで、永久に追い続けなければならない代物である。まさに、決してたどり着けない蜃気楼と言える。

そしてこの蜃気楼を現出させている貝が、貨幣である。
我々の欲望を一身に吸収し、「もっと、もっと」と急きたてる。おかげで過剰な欲望のベクトルは一方向に収斂され、一応の秩序が保たれる。それは明るい未来に向かって走り続ける動的な秩序である。

我々の生きている資本主義を蜃気楼のメタファーで説明してみた。

これで良いのだろうか。あるいは、それで良いのかも知れない。現存在への根拠を問う行為は秩序を乱すものであるのかもしれない。
だが、この不安が誰もが本質的に抱えているものであり、いつ発現するかも分からないという可能性がある以上、それを問い続けることに意味があるという確信はある。「そんなこと考えても仕方がないよ」という声に耳を貸すつもりはもうない。

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