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2007-12

法を犯す自由

我々には法を犯す自由だって与えられている。
盗んだバイクで走り出すこともできれば、斧で老婆を殺害することもできる。

もちろん、刑法によって裁かれるに決まっているが、罪を犯して刑務所に入ることを選択することだってできるということは知っておくべきだ。もちろん、警察の目を逃れて続けようとすることだって選べる。

我々に許されていないことは、人を殺すことではなく、人を殺して社会的制裁から無関係でいることだ。
ここを取り違えてはいけない。

相対主義の罠

ものごとには正義も悪もなく、見方によって全く違ってくる。基準にしている座標系が違えば、対象が同一でも座標が異なってくるのは道理だ。何が正しくて、何が誤っているか、という絶対的な判断はできない。唯一無二の揺るぎなき真理などありえない。

だから各自がてんでばらばらに判断すればそれでいいのだ。
相対主義はともすると、そんな投げやりでいい加減な思想になりがちである。

そして、絶対的な真理(正義)があると信奉している、あるいはそれを疑いたくない頭の固い人々は、そんな誰もが自分勝手に振舞っていては社会は崩れてしまうし、決まった価値がないといっていたのでは何も物事は進まないではないか、と相対主義を批判する。
軽く反論しとくと、「崩れてはいけない」「発展すべきだ」という考え自体が既に絶対的基準に則っている。その根拠はどこにもないよと言っているのが相対主義なんだよ。

でも、そう言っている本人も、「真理なんてありはしないのだから、何でもあり」というのはちょっと違う気がする。
「今日から俺はオレ語を話すぜ!」とかぬかして、突如擬音語でも表現できないような音声を発して言語を操っている気になっている奴がいたら、それは違うといいたい。いや、私だったら放置する気もするが。
少なくとも、それは当人にとって何のメリットもないし、少なくとも幸福ではありえない。いや、そもそもメリットなんぞを考えることに意味などない・・・というより、意味があるかどうかという思考自体がナンセンスなのだが。

そもそも相対主義は、どういう判断・解釈もそれはそれで良いという定義からいくと、絶対的な正しさがあるはずだという判断図式も肯定されるべきものとなる。すると、これが確実に真だといえるものが存在するはずであって、それは相対主義に反してしまう。かくして相対主義は自壊してしまう。

じゃあどうすりゃいいのさ、と思ってしまう。
でも良く考えてみたら、別にどうということはない。どうもしなければいいのだ。
理屈でもって整合性をつけようとすることを放棄しようってのが相対主義じゃないのか。絶対的な基準なんてないんだよー、って「主張」する必要はないんだ。主張するのは絶対主義の仕事だ。だいたい、「主義」ってことばに力がこもってて困るよね。そんな腕まくりしながら意気込んでやるようなことはないんだ。

だから具体的にはどうすればいいのか。
すればいいも悪いもない。すでにやっている。見るままに見、聞くままに聞き、感じるままに感じればいいのだ。それだけで私たちは十分に楽しいじゃないか。

善悪、正誤より好悪

この世に、善いことと悪いこと、正しいことと誤っていることがあるのではない。
あなたの世界に、あなたの好きなこととあなたの嫌いなことがあるだけだ。

同じように、幸せなことや不幸なことがあるわけではなく、
幸せだと思うあなたがいて、不幸せだと思うあなたがいるだけなのだ。

生まれてきてごめんなさい

これは、いわゆる「釣り」ではない。

私は成績優秀な優等生であり、教師の覚えも良く、それなりに友人にも恵まれました。家庭環境もいたって良好で、経済的な困難を感じたこともありません。誰に陰口を叩かれることなく、誰に疎まれることもなく、ちゃんと愛されてきたし、敬意も払われてきたように思います。いじめに遭ったこともなく、大怪我をしたこともなく、大病を患ったこともないのです。それなりに明晰な頭脳と、それなりの容姿と、それなりのコミュニケーション能力とを有し、平穏無事にこれまで生きてきました。

べつに自慢しているわけではない。

何の申し分もなく生きてきた(実際のところこれまでの境遇に不満はない)私は、当然この社会でそれなりに幸福に生きていくはずです。この社会で、しかるべき価値を想像しながら生活を営んでいくはずの存在なのです。少なくとも、そのように考えられるでしょう。

だがしかし。
だがしかし、俺はこの社会で当たり前の生き方をすることなんかできない。お金を稼いで、結婚して家庭を持って、子どもをもうけて養う、という当たり前の生き方はできない。
まず生活のためにお金を稼ぐという行為が理解できない。もし報酬がもらえなかったら、やらないようなことを、なぜやらなければならないのか。
なぜ「生存しなければならない」理由も良く分からないのに、生存することを前提に考えて行動できるのかが不思議だ。そのために愉しみを犠牲にしている思考が分からない。キリギリスは本当にアリたちよりも不幸か?

それでも私は、内在化された社会の監視塔を破壊できるほどの奇人ではありません。私は、単なる自分勝手な屁理屈を捏ねているに過ぎないのではないか、と思います。
そこで、私に内在化された社会性がこう叫ぶのです。生まれてきてごめんなさい、と。
この社会で幸福にも育まれてきたこの私は、受けた恩を当然還元すべきなのです。能力を持った健康な成人なんだから、なんやかやと駄々を捏ねてないで働くべきなのです。

本当はそんな風に思っちゃいない。俺は社会に守ってくれと頼んだ覚えはない。物心が付いてみれば、もうこの社会に組み込まれ、いつのまにか債務を背負わされていたんだ。
でもそんなものを律儀に返済しなければならない理由などどこにもない。俺は、感じるまま感じることだけをする。そうやって野垂れ死ぬのも覚悟の上だ。

そう、私は報酬などもらえなくとも、自然にやりたいと思えることしかやりたくはないと思ってしまう、そして実際にそれ以外のことはやらない、罪深い人間なのです。
この社会ではそれは通用しないと言われるなら、どうぞ私を殺してください。

そうだ、そんなに俺が気に入らないなら殺してくれればいい。俺はもう誰も恨んだり、憎んだりはしないから安心してくれていい。
俺は楽しくもないのに、意味のよく分からないことなどしたくない。この社会の恣意性に従って、普通の人生をいきるなんて出来やしない。

ありがたいことに、そんな我侭を言いながら放蕩していても、私はこうして生命の危機を感じることなく、のうのうと生きていられるのです。それは、多くの人に支えられているからです。とりあえず身近な人はいいのです、問題はこの社会なのです。正確に言うと、私の生活を保証してくれていると私が感じるこの社会なのです。
こんな罪深い私を支えている社会を支えているのは、社会の恣意性を疑わずに(うすうす疑問を持っているのかもしれないけれど)せっせと働く人々なのです。だから、私はそんな彼らから後ろ指をさされる後ろめたさに駆られているのです。

でも、そんな社会に没入している連中に唯々諾々と従う必要なんかありはしない。彼らは社会の外から俯瞰することを知らないのだ。内側にいたのでは、その恣意性を知りようもないし、自分たちの行動の無根拠性も分からない。
彼らが社会からはみ出した者を責めるのは、自縛している自分たちの価値が揺らいでは困るからだ。犠牲を払って社会を形成しているのに、その上で自由気ままに楽しまれたら癪だからだ。単なる僻みに過ぎん。

しかし、そんな彼らに後ろめたさを感じるのです。いや、むしろ怖いのかもしれません、誰からも認められないことが。

そう、だから俺は理論武装をする。
俺は怠けてるんじゃない、ただ単に自分勝手に生きてるんじゃない、と。社会に没入しているお前らには分からんことなのだよ、と。
でも本当はそんな風に闘いたいんじゃないのだって気づいている。ただ、認めて欲しいだけなんだろう。

でも、そんな理屈は単なる甘え。許されることではありません。
だから私に内在化された社会性は泣き叫ぶのです。
生まれてきてごめんなさい。

焼きそばの方は久しく確認していない

UFO:「存在確認せず、飛来検討せず」政府が公式見解

日本政府はUFOを確認してないんだそうだ。
確認した時点でUFOではなくなるでしょうが、という語義矛盾に関するツッコミはするまでもないよね。まぁ確認しても、なにものなのか特定できなければアンアイデンティファイドなのか・・・ということは、そもそも未確認飛行物体という訳語に問題があるのか。

宇宙人というか地球外生命体というのがいるのかどうかは分からないが、有事が宇宙から降ってくる可能性がゼロだと証明することは出来ない以上、これも国家を防衛するという意味では政府のお仕事なのかね。
でも他国家が侵略してくるなんて想定されうる事態と違って、「未知との遭遇」は現在の国家の前提をはるかに超越しているので、国家がそれに前もって対処するなんてできっこない。だから「シラネ」っていう見解は正解なのかもしれない。

円盤が飛来しても、元寇やら黒船来航のときみたいに何とかなるんじゃないだろうか。地球外生命体に対する見解の現状は、当時の日本の政治組織が海の外からの敵襲来を全く想定していなかったのと大差ない気はする。
(ここらへん、当時の歴史的背景も知らずに適当に書いてるので、もし認識不足による明らかな不備があったら是非ご指摘願いたい。)

町村氏と同じ意味合いなのかは不明だが、私も個人的には何かしらいるとは思っている。もっともそれは人類の生命体の定義に該当しないかもしれない。
というか、いるといないのとでは、存在論についての哲学的命題が全く変わってくるような気がする。何がどう違うのかは、うまく説明できないが・・・

とりあえず宇宙人がいたとしても、エイリアンやプレデターみたいにグロかったり、凶暴だったりするのは勘弁してほしい。
できるならヒューマノイド・インターフェースを希望したい。

まめまめしきものはまさかりなん

クリスマス前だから、というわけではないのだが、今月は立て続けに贈り物の選定に悩むことになった。

贈るにしろ貰うにしろ、どうせなら役に立つものがいいに決まっていると思っていたのが、どうもそれは野暮だということ気づいたのはいつ頃のことだろうか。
高校の古文の授業で読んだ更級日記の一節が今さらながら思い出される。もっとも前後の文脈はさっぱり忘れた。

役立つものは必要だと思えば自前で買うわけで、本人にとって不要な実用的なものなど贈られても邪魔以外の何ものでもない。合理主義に対して合理主義的に反論するとこんな感じになるが、これでは現ナマを贈ればいいじゃないかという結論にしかならない。
それでも、祝儀やお年玉はそういうものだという既定事項だから別にするとして、そのままズバリ現金を渡されたのでは嫌らしかったりする。味も素っ気もない。

そう、贈り物と言うのは味や素っ気を求めるものなのだ。大事なのは何を贈ったかということよりむしろ何かを贈ったという心遣いなのだろう。ゆえにそれは役になんか立たない方がいいのだ。
感謝や好意を伝える演出になるようなものが良いわけで、実用性はノイズになりかねない。

そんなわけで花が最強なのかな、と思う。あれほど実用性皆無で演出性にすぐれたものもないだろうと思う。
ただし、私に何か贈ってくれるのなら、是非花よりも食べ物にしてくれ、と誰にともなく付言しておきたい。

でも中国人なんかは、電化製品なんかを贈られるのを好むのだとか。習慣の違いで片付けるべきなんだろうが、不粋だ・・・と思ってしまう。

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