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2008-03
錠をかけ忘れる
- 2008-03-20 (木)
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これは何のメタファーでもなく、実際にやってしまったことw
帰宅してから鍵を所持していないことに気づいて一瞬だけ焦る。まさかと思って取っ手を引くとドアが開いた。単純に錠をかけず、鍵を持って行き忘れただけだった。
出掛ける際に施錠するなんて、無意識に刷り込まれた動作であるはずなのに、どうかしている。よっぽど考え事をしていたのだろうか・・・
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可能性という門
- 2008-03-19 (水)
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誰にでも可能性が開かれているということは素晴らしいことのようであって、実は恐ろしいことでもある。
成功していないのも、幸福でないのも、それは彼がやらなかったか、もしくは出来なかったからだと説明されてしまう。あらゆる現状への責任が、すべて当人にのしかかる。
当人の意志が言い訳への横道へと逸れることを推奨しているのではない。全ての意志が「その」可能性の門をくぐることを強制されることを問題にしている。その門に縛り付けられた意志は既に意志ではなくなる。
「あなたにも出来る」という教説は意志に対する桎梏である。可能性の(特定の)対象(「何が」できるのか)へとロック、施錠される。
可能性は開かれるだけで充分だ。開かれた可能性を<かたる>その口は閉じろ。
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力
- 2008-03-19 (水)
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本屋に寄ると、大抵は哲学思想のコーナーに行くか、あるいは歴史のコーナーを眺めるくらいだ。たまにコンピューター関係のコーナーに立ち寄ることもあるくらいで、ビジネスとか自己啓発なんかには一瞥もくれない。
それでもそういう没社会的なものの方が売り場の最も目立つところ、とくに入り口近くに陳列していたりするもので、望まぬとも眼に入ってくる。
数年前から「××力」というタイトルの本がやたらと多い。
世間の傾向に追従する愚かしさには軽蔑の眼差しをくれてやるのも惜しまれるが、それ以上に力を求めること、支配を欲望するその卑しさに吐き気をもよおす。
おお、これはニーチェの言う「力への意志」に他ならないではないか。もはやそれは「真理への意志」という外套も脱ぎ捨てて、堂々と街を闊歩しているのだと思うと、苦々しい事態ながらも笑えてくる。
そう思いながら、堆く平積みにされた書籍を横目に見ながら内心嘲笑している私も、やはり同類の意志に駆動されているには違いない。
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道徳の系譜
- 2008-03-15 (土)
- レビュー
ニーチェ曰く、『善悪の彼岸』と並んでニーチェ思想への入り口となる著作。
読み手による丁寧な解釈を必要とする格言調ではなく、論文の体裁をとっているので理解するのにそれほど難解ではない。論文とはいえ、ニーチェの叫びに近いパトスが迸るのが訳文からも伝わる。
道徳が形成された過程を、貴族的自己肯定による「よい・わるい」という価値基準と、僧職的反感による「善い・悪い」という価値基準とに二分する。そして社会に跋扈する道徳とやらは、まさに後者が前者を駆逐したものに相違なく、弱者による自らの強敵への怨恨の一撃であることを暴露する。そしてその価値基準は、生成条件によって自らの基準を他人に強要するのだ。
貴族的自己肯定を果たして肯定してしまってよいのかという点には一抹の疑問を感じるが、道徳の正しさの捏造を暴きだす彼の作業は、本当に胸のすく思いがする。
このとおり、彼の思想は定義からして反社会的なものでしかありえないが、それを堂々と宣言するニーチェに、私は勇気付けられてしまうのであった。
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中国思想を学ぶ人のために
- 2008-03-14 (金)
- レビュー
中国の思想を、春秋時代から清朝まで時代を追って解説する書。老荘思想と仏教を中心に、儒教と道教も含めて中国思想(宗教)史の変遷を理解できる。
概して中国は政治への関心が極めて強いため、その思想も勢い政治哲学にならざるを得ない。そもそも漢代に国教と認定された儒教が、経世済民という政治目的を主眼に据えたすぐれて道徳的な思想である。
一方で、インドから西域を経由して渡来してきた仏教も、その世界のあり方を探求した概念的思索は削ぎ落とされ、きわめて中国的な実践的かつ具体的な救済としての手段へと消化されてしまった上で普及した。
あくまでも社会的秩序形成の必要性を前提とした上でそのあり方を問題とした儒教に対して、哲学的な思索を深め個人の生き方を問うたのが老子や荘子たちによる道家の思想である。なお、道教は後漢末期から現れた民間信仰に端を発する宗教であり、老荘思想を教義に採り入れてはいるが、思想的探求を行う道家とは系譜を一にしない。
中国において、哲学的思弁が精錬される素地がないのがよく分かる。結局は政治の追従者に、あるいは単純な経世済民の方向に流れていってしまい、変形した(捻じ曲げられたようにしか私には見えないが)仏教が残念に思える。
そんな中で、老荘思想が哲学性において最強であるのは明白だ。これは西洋哲学にも対抗しうるだけの力があるように、私には思える。特に、六朝時代の政界という俗世から隠遁した者たちの思弁を私は辿りたい。
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