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2008-05

十字架を軽くするために

贈与は受けた瞬間に負債に転じる。贈り手が見返りを期待していないとしても、受け手は何らかの形で返礼しなければならないという責務を負う。したがって、純粋な贈与はありえない。
返しようのない贈与は、相手の心に負い目として圧し掛かり続けるのだ。

だから私は、知人に何か貸すなり与えるなりした場合には、「軽い」方法での返礼を受けるようにしている。一番いいのは、食事をご馳走してもらうことだろうと思う。
金銭に換算して返済を受けるのは、お互いに気まずい。食事であれば、その場だけのやりとりで後にモノが残ることもないし、何より食事中にお互いにコミュニケーションが図れるので最良だ。

逆の場合もまた然り。すなわち、相手が私に対して謝罪すべき状況が発生した場合である。
何も咎められないのは、却って当人にとっては責苦になるもの。むしろ「軽い」罰を与えて、償いを受け取ってあげた方が相手の気持は軽くなる。

というわけで、昨日は食事をおごってもらった。
だけど、あんまり軽くなかったね。ちょっと高すぎた。スマソ。

一人称のない夢

抽象的な夢を見た。
フロイト先生によると、夢においては論理形式が全て思考対象のレベルに落ちてしまうらしいので、夢に抽象性はありえないのだけど、抽象的っぽい夢を見た。
ちょっと面白かったので書いてみる。

登場したのは、ミッキーマウスと猫と神(的な誰か)。ちなみに、ミッキーマウスと猫は同一対象。猫と鼠が同一とはこれいかいに、といった感じだが、猫だったはずの対象がいつのまにかミッキーマウスになっていたのだから仕方ない。といっても猫がミッキーマウスに変身ないしは変形したというわけではなく、対象自体の変化を一切感じることなくして、私のその対象に対する認識が猫からミッキーマウスに切り換っていたのだ。
これはちょっと面白い。対象がどうであれ、私がそれと認識しさえすればそれなのである。単なる岩を虎だと認識すれば、それは当人にとっては本当に虎になってしまうのである。もっと言えば、対象なんて本当はなくたって、そこにないはずのものが有ると認識すれば、それはあるのである。私の世界は、私の認識によって成立しているわけで、私の外側の現実世界すなわち「実際のところ」なんてものは語りえないのだ。それをリアルに(といっても夢だけど)体感してしまった。
ちなみにミッキーマウスが登場したのは、眠る直前の飲み会でディズニーランドについての会話をしていたからだと思われる。

で、夢の内容。
ドラゴンボールの精神と時の部屋のような雰囲気が漂うなかに、猫が一匹。台座のような場所から飛び降りると、そこに神が近づいてくる。この人物は神であるという認識に基づいているので、その容姿は判然としないが、ナメック星人的でないことだけは確か。そして神が、そのミッキーマウス(ここで既に認識が変化していた)に洗礼のようなことを施していた。
それだけで、特にインパクトのある内容ではない。感情的な揺れもなかったように思う。

目覚めてから、この不思議な夢について考えていてふと気づく。
果たしてこんな光景を見ていた私は誰なのか?

願い事ひとつだけ

叶えてあげると言われても、私は何も言えない気がする。
あれが欲しい、これがしたい、という人並みの欲はあるにはある。しかし同時に、そうでなくても構いはしない。強いて願うことなど何もない。

夢も希望もなく生きられることこそ素晴らしいことなのではないか、と最近よく思う。
こう言うと、きっと後ろ向きな卑屈な発言だと取られるだろう。いかにも私は元来ネガティブな人間であることを自認しているが、この主張については極めて肯定的なものであることを言っておこう。

考えてもみろ。
夢とか希望とかいう蜃気楼に向かって走らせてきたものこそ資本主義ではなかったか。今や資本主義の掲げる明るい未来など誰が信奉しているだろうか。経済成長率を「気にしている」ことにしているシニシズムを感じないとは言えまい。
そんな社会の統一的な「良さ」なんか気にしない、「自分らしさ」を追求したい、とかいう志向は既に民衆の総意になっているのではないか。

にもかかわらず、人はまだ夢や希望に向かって生きることを「良し」とする。価値を未来へとスライドさせ、現状を無理やり意味づける姿勢は何も変わっていない。
なぜ今この刹那を素直に肯定しないのか。

今この刹那に幸せを感受している人は、夢や希望を語る必要がない。夢を語りたいなら、希望を持ちたいなら、そうすればよい。だが、それを必要としてしまうことは不幸だ。鼓腹撃壌する者が未来を語るだろうか。
異様な熱気で夢を語る者を見よ。その眼は明後日を見つめ、吐息には腐臭が漂う。今を生きてはいない者たちなのだ。

栄光に向かって走るその列車から降りろ。残念ながら、線路は続くよどこまでも。
車窓から景色を眺めるのではなく、大地を踏みしめる感触を味わえば良いのだ。

光は前方(未来)にはない。それは蜃気楼だ。
むろん頭上にもない。神はとっくに死んでいる。
無明の闇を照らす光源は己自身だ。

今日もどこかで

誰かが搾取されているわけだ。

こうやって快適な都市生活が送れるのは、当然誰かが搾取されているからなのである。そのことに想いを致すとき、私は私が生きているだけで、特に都市生活者として生きているだけで吐き気をもよおす。罪を覚える。
少しでも搾取する側に移ることを、世間は「成功」と呼ぶが、こんな私はその方向に行きたいとは思えない。
かと言って赤くもない。搾取する者がお上に一極集中するだけで、事態は何も変わらない。だいたい理想を掲げることは、現状を否定している以外の何ものでもないのだ。

いかにしてこの社会の先験的な暴力性を、人間が文字通り人の間でしか生きられない生き物だとするならば、人が人として生きていくことの(それは取りも直さず社会の)残酷さを肯定しうるだろうか。
この免れざる悲劇を(喜劇として笑い飛ばすのではなく)笑える契機を、私は見出したい。

ニーチェ―ツァラトゥストラの謎

ツァラトゥストラ読解にもってこいの一冊。
直線的な理解を許さない『ツァラトゥストラはこう言った』を、丁寧に解説してくれる。むろん、固定的な解釈を回避する書であることを念頭に置いた上で。

あとがきがカッコつけすぎだが、いかす。

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Locks

メロディーも良いけれど、今回は歌詞が気に入った。ピンと来るメタファーが散りばめられていてわくわくする。
とくに「ふたり」の歌詞は、洒落(言葉に宿る二重性)を使いながら同一性への回収を拒否するという、最近の私のテーマと被っていて、かなり感動する。
・・・そうか、だから”Locks”って複数形なのか。

でも、だからってCDを3タイプ用意して「揺らぎ」を与えているわけじゃないよね・・・制作上の意図ではなく、明らかに経営上の意図だよね。
初回限定版を2枚もリリースすることが、ファンへの冒涜になることをそろそろ分かっていただきたい、GIZAには。そう思いながら、ジャケットのために買ってしまう俺ガイル。ジャケットはそれなりにかっこよいと思う。まだ通常版は未購入だけど。

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