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2008-10

昨晩、頭痛で目が覚めた

単純に眼精疲労が原因だと思う。

頭痛にうなされながら、夢うつつにSQL文を打っていたような記憶が残っている。
脳は寝ているときでも、猛スピードで回転しているのだと実感した。心なしか頭が熱を持っている気がした。

俺のこの手が光ってうなる!

このブログで展開している思弁は、生きる意味を見出すためのものではない。
意味とか価値とか、そんなものは単なる妄想に過ぎないことを敢えて吹聴するために書いている。

価値を実感しているものが単なる妄想であることを原理的には分かっていても、日常的にはその前提を崩さず、その土台がどこにも基づいていないことを忘れて生きている人は多い。
それはいい。機会さえあれば、無根拠性を想起してくれるから。

問題なのは、己の信じている価値なんか妄想に過ぎないことを分かっていない人である。彼らは他人をことごとく自分の世界の住人にしようとする。これが人間の抹殺でなくて何だ。抹殺してはいけないといっているのではなく、抹殺してはいけないと言っている者が抹殺している蒙昧ゆえの欺瞞に憤るのである。
だから、生きる意味について語りたいのではなく、彼らの奉戴している神像を破砕したい、ということなのだ。

お前を倒せと輝き叫ぶ!
のである。

諸葛亮の理想

久しぶりに三国志ネタ。

映画「レッドクリフ」が公開直前とあって、電車内の広告が目を惹く。それほど楽しみにしているわけではないが、三国志ファンの端くれではあるので観にいく予定ではある。

さて、その広告の謳い文句が気になった。
どうも赤壁で大活躍する孔明先生は穏やかな世の中を目指しておいでらしい・・・
エンターテイメントなので面白く脚色してくれればいいと思っているし、だいたい赤壁の戦いを題材にしている時点で史実との整合性なんて望めないのであるが、なんだか違和感のある表現だと感じた。なんだか現代的な願望に過ぎる。(つーか、マジで穏やかな未来を望んでるなら、弱小の劉備につかないだろう・・・)
曹操の孫呉への侵攻も、二喬の獲得が動機のうちでもかなりのウエイトを占めるようだ・・・これも観客の日常の感覚に引きつけまくっているように思われる。

漢室再興の意志とか、劉備との義侠的な関係なんぞを主人公の心情の中心に据えても、現代人が感情移入できないのは分かるが・・・それでも、物語の再解釈に想像力の貧弱さを感じないわけにはいかない。

だいたい「『三国志』完全映画化!」って、赤壁がテーマでどのへんがどう完全なのか首を傾げたくなる。
ま、観てもいないのに文句を垂れるのもなんだから、とりあえず期待しないで観にいくことにしようっと。

なぜ社会人はくだらないか

ちょっと挑発的なタイトルにしてみた。内容としては、「すべてはここから始まる」の続きになる、のかな?

大学を卒業後、新卒で就職した。日本における、とても一般的なコースを進んだわけだ。
そこで、会社員の生活が実にくだらないものであることを知った。そのことを実感するために、一般的な大学新卒の就職を選択したのだ、と今では考えている。半ば自己を肯定するために(笑)

何がくだらないのかと訊かれても、全部としか言いようがないだろうか。朝から夕方まで(当時の私の勤務で言えば、早朝から深夜まで)出社しなければいけないことがそもそもバカバカしい。
私の言っているくだらなさ、というのは普通の人が考えるであろうそれとは違う。もし私に一生困らないだけの経済的余裕があれば、やらないであろうことをやっていることが、くだらないと言っている。

こう言うと、現に働いてお金を稼がなければ生きてはいけないじゃないか、という反論があるだろう。生きるためには働かなければならない、と。
ごもっとも。じゃあ、なぜ生きるのか。死ねばいいじゃないか。生きていかなければいけない理由がどこにある?

働いて生きていくことには、喜びも感動もあるよ、という人がいるかもしれない。
どんな楽しいことがあるだろうか。仕事をして、人に感謝されて、報酬をもらえて、結婚して、子供をもうけて・・・うん、楽しいかもね、感動するかもね。分からないでもないよ。
で?
だから?
それがどうした?

この疑問は、その嬉しさや感動の度合いが実際に味わってみないと分からない、という問題ではない。
どんなに超絶的な感動がありえようとも、それによって人生が肯定されることには決してならない。ただし、超絶的な感動を味わっている瞬間に人生が肯定されることを否定するものではない。けれども、未来にわたってどんなに人生肯定の可能性を示されようとも、今この瞬間における人生肯定がなされていない限り、「死ねばいい」の選択肢を棄却することはできないのである。
だって、そうでしょう。未来は薔薇色だったとしても、現に今不快な労働を忌避して死を選んだら、不快さと共にばら色なはずの未来を味わえなかった残念さも抹消される(と思われる)からだ。今この瞬間の否定感が「死ねばいい」選択肢をその度ごとに、未来の薔薇より色鮮やかに屹立させる。

「お前は知らないだけだ」という批判が意味を持たないことを提示しておいて、話を進める。
さて、実際には未来の薔薇色が保証されているわけでは全くない(笑)やはり相応の努力は必要なのである、社会で認知されているような幸福を掴むためには。
そして、私は会社勤めという努力をすることを考えたとき、端的に死んだ方がマシだと思った。しかし、死ぬよりとりあえず辞めることの方が簡単なので退職した、というだけの話だ。会社勤めをした上で得られる(であろう)幸福感と労働(の不快感)を秤にかけた上での決定ではない、というのがポイントである。

タイトルに答えよう。
社会人のくだらなさは、「生きる」を本気で前提にしていることである。
余談。「よく考えろ」とか「根拠を示せ」とか言っている奴ほど、「なぜ生きるのか」の問いには目を瞑って考えようとしない。避けていることすら自覚してない。

従って、強く付言しておくが、私の就職した会社がまずかった、と言っているわけでは決してない(笑)おそらく、どこに就職したところで、私は同じ思考を辿り、同じ選択をしただろうと思う。
就職することがまずい、と言っているわけでもない。会社勤めで「うはぁ、楽しい♪」(←超絶的感動としての叫び)ということも原理的になくはないだろうし、「そうは言っても、やっぱり生きていくためにを考えてしまう」という社会人の悲しい性も痛いくらい良く分かるからだ。

私が話しているのは、具体的な会社の話ではない。日本という特定の社会の話をしているのでもない(ココ重要!)。社会なるものを形成する人間一般についての話をしているのである。そして、話はもっと普遍的な方向へ続く。

パワー10の人がパワー100の人に勝つ方法

パワーを数直線上の位置で測ることをイメージしてもらえると分かりやすい。

パワー10のAさんが、パワー100のBさんに勝つためにはどうすれば良いか。常識的に考えて、方法は2通りある。

一つ目。
Aさんが鍛錬することにより、自身のパワーを100以上に上げる。

二つ目。
Bさんに損害を与えることにより、彼のパワーを10以下に下げる。

いかなる手段も、この二つの組み合わせでしかない。

ところが、AさんがBさんに勝つ非常識な第三の方法があった。

全文を読む

で、っていう

ヨッシーの話ではない。

話の相槌に、「で」という単語を単独で使うことがよくある。
話の続きを促しているわけだが、改めて考えてみるとなかなか面白い言葉だ。

文法的には格助詞「で」が、接続助詞的に使われたものだと思う(たぶん)のだが、知っての通り助詞は付属語である。学校では付属語は、それ自体では意味を成さない単語であって、必ず自立語とセットで使用されるものだと教わったはずだ。
にもかかわらず、実際の会話上では単独で使用されてきちんと意味を成しているじゃないか!
と思った。

で?

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