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2008-10

電報はゾンビ

友人が結婚すると聞いた。結婚式の二次会に呼ばれたが、残念ながら不参加。遠隔地なのもある。

祝電くらい送ってやろうと思ったが、電報である必要がどこにある?
本来的な電報の役割を考えると、即時性だろう。しかし、これはもうメールの方が遥かに勝っている。
メールになくて電報にあるものといえば、形(紙)として残る点だろうけど、だったらメールをプリントアウトすればいい。そもそも電報自体が、印刷物なんだから。
印刷用紙に書かれた文面だけではなくて、飾りの枠が欲しいということだろうか。

メールに比して異様に高い電報の値段は、ほとんどこの飾り枠による。
しかし、あの飾り枠にどれほどの意味があるのか。テンプレートから選ぶだけだから、結局誰も彼も同じものになる。無駄と言わずして何と言う。
しかもその枠にはランク付けがあって、豪華になるほど価格は上がる。それによって何を示したいのか、よく分からない。実にいやらしい慣習だと思う。

メールを操作できない、もしくはメールを送信できる環境にない人のための電話以外の通信手段として、残しておいても良いとは思う。
しかし、それは細々と残せば良いのであって、無意味な装飾を付加して無理やり生かしてどうする。

よってメールにて祝辞を送ることにする。

まあ、そんなことを言う人はお金儲けができないのですよ。
それに、慶事からゾンビの話になってしまうのは、どうかと思ったw

すべてはここから始まる

めんどくさい

また、始まったよ・・・
これは生まれながらの持病なので仕方がない。もう一生付き合っていくしかないだろう、と覚悟している。だいたい今まで大過なく生きてこられたのが不思議なくらいだ。弱肉強食の自然界ならとっくに死んでる。それでもこの人間社会では、幸か不幸か生きながらえてきた。
ということは、人間にはこういう“フザけた”生き方がまず許容されているのである。この場合の「許容」の主語は、社会とか人間とか云うんじゃない・・・適当な言葉が見当たらない。
たとえば、私の腕や脚を動かしているのは、むろん私だが、私が腕や脚を動かすことを可能にしているのは私ではない。いうなれば、それは神と云うしかないような力によって可能とされている。そのような力によって、生きる気力を持たざる者が生きさせられるのが人間である。ならば、積極的に生の充実を求めずして(かといって死を願うわけでもなく)生きていく人間を認められはしまいか。20台半ばにして社会を半分降りなんとしている私が、もし社会的な願望を持つとするならば、それはこの承認の獲得にある。

非社会であることを、社会に認めさせようとするこの矛盾。
社会性を身に纏いながら、超社会性の裸を想ってしまった私の悲劇。せめて着こなすセンスがあれば、もう少し救いもあったろうに。
この分裂した私が向かう先はあるか。

改名しました

タイトルのごとく。”つり”に非ず。

改名したついでに、ハンドルネームも改めることにした。
「玄鳳」から「玄鵬」へ。読みは変わらず「げんほう」
『荘子』逍遙遊編の「鵬」を意識している。玄鳳が「鳳雛」を意識して付けた名であることと比べると、私の志向(というか嗜好)の変わりようが分かるというもの。
しかし、玄鵬って力士の四股名っぽいよね。まぁ玄鳳だって、あれはあれで戒名っぽかったけど。

なお、本名の方も一字のみ改めただけで、読みは変わらず。もっともいきなり戸籍から変えられるれるわけではないので、当分は通称名ということになるけれど。

さて、「なぜ」という問いがくることは必然なわけで・・・簡単に説明しておく。
一年半ほど前から運命学(所謂「占い」と呼ばれる類のもの)を学んでいて、その一分野に名前によって吉凶禍福を判断する姓名学がある。名前の画数によって運勢を判断するという、どこかで一度は耳にしたことはあるアレだ。
運命学についての私なりの見解は、追々書いていくことになると思う。

日本人には、宗教と占いに即座に拒絶反応を示す人が多いので、リアル知人ばかりが見ているブログでこれをカミングアウトするのは少々リスキーなのだが、私の思索を展開する上では外せない要素なのでここで披瀝しておく。

以上、重要な近況報告を兼ねての久々のブログ更新となりました。

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