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2008-11
理不尽を抱えて
- 2008-11-26 (水)
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自転車での通りがかりに、工事現場のおっちゃんらを見て思う。
たとえば、私が充分な不労所得で生活できるようになったとしても、世界の理不尽さを何も解決することにはならないではないか、と。
非常に不本意ながら私の目下の課題は、いかにして充分な収入を確保するか、にある。
だが、そのような生活のための努力が、私のこの世界の理不尽さに少しの解決ももたらさないであろうことを思うと、いっぺんに気が失せてしまうのだ。さらに、そのような努力の成果が得られたときに、根源的な理不尽さを忘れて俗物と化してしまうことをも怖れる。
まぁ、半分は言い訳だ。
生活のために強迫観念に駆られて社会に参画することが厭で厭でしかたがないだけなのだ。そうではあるが、この厭世観だって世界の理不尽さを直感してしまうがゆえであることは疑いない。
厭だと言ったって仕方ないのは確かだが、同時に厭だと思ってしまうことも仕方ないのだ。行動力のなさをいかに貶されようとも、理不尽さへのこの感性だけは批難される謂われはないと思う。
こんな風に負の螺旋階段を降りているように見えても、実際の生活上のことはなんとかなるんじゃないかと思っている節があるし、事実なんとかなっている。あとは強迫観念をどう解消していくか、ということに尽きるだろうか。
あ、念のために言っておくと、私が感じている理不尽は世界のそれであって、社会のそれではない。もちろん社会の理不尽だって痛切に感じるけど、そんなことはどうだっていい。現実の社会がどうあれ、そもそも社会が理不尽でありうることが世界の理不尽なのだ。
だから、働かなくても裕福な人たちの生活を、工事現場のおっちゃんらみたいに低賃金で肉体労働を続ける人が支えている社会構造を改革すべきだ、と言いたいわけじゃない。そもそも、人がそのように理不尽であってしまうことに悲哀を感じ、歯噛みしてしまうのだ。もっとも、私が知らないだけで、おっちゃんらはそんな人生にものすごく生きがいを感じているのかもしれないけど・・・
そんなこんなで何が言いたいのかっていうと、世界の理不尽さに気付かないような、あるいは知っていても気にならないような鈍感な人は嫌いだということ。
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なぜ二度寝に至福を見るか
- 2008-11-11 (火)
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私は平日の午前から惰眠を貪る。このまどろみに、この上なく幸福感を感じるのは、背徳のゆえであろう。通常の社会人は、平日は朝早くから起きて労働に勤しむ。この社会の倫理を逸しているという悦びがあるのだ。
しかし、この悦びを感じているということは、いまだ枷を引き摺っていることに他ならない。「汝なすべし」の桎梏から解き放たれるとき、朝のまどろみもただただ退屈なものとなるだろう。
それで良い。床の余熱を断ち切るのではなく、その熱こそが床から飛び出すエネルギーとなるべきなのだ。その時に初めて、私は暁を覚えるはずだ。
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俺のこの手が凍って固まる
- 2008-11-09 (日)
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寒さが厳しくなった。出掛けるときの外気の感覚が冬めいてきた。この感覚は、嗅覚で表現するのが近い気がする。”冬の匂い”というと伝わるだろうか。これとは微妙に違った”年末の匂い”というのもある。何がどう違うのかはうまく説明できない。単に私の心持ちの違いかもしれない。
寒くなってくると大変なのが、手足の冷え。血液の巡りがあまり良くない私にはなかなか辛い。マウスを持つ手が凍りつく。寒くなって困ること、もう一つ。早起きがいよいよ不可能になる。だが、それだけ二度寝の幸福度が倍増するわけで、平日の昼まで睡眠にしてしまえる私はこの快楽を存分に享受できるのである。
やはり、他人(社会)からの干渉を極力避け、自由を最大限確保することに専心すべきだ。と、布団の中で思う。
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若者の閉塞感とかいうやつ
- 2008-11-05 (水)
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しきりに叫ばれる若年者の勤労意欲の低下という社会問題は、経済成長が鈍化し、加えて少子高齢化が進むことにより、年功序列や終身雇用の制度が破綻し、若年者が働き続けても収入の増加が見込めないことによる、と考えるのが主流な考え方のようだ。働いても報われにくい状態であるから、やる気がなくなるのであると。飛躍的な経済成長や少子高齢化の趨勢を大きく変えることが望めない中で、若年者が働き甲斐を持って働ける労働環境をいかに作りうるか、というのがまともな課題の設定であろうと思う。
しかし、私はこのような事態の捉え方に違和感を抱いている。彼らの底流にある閉塞感のようなものは、先に希望を見出しにくい現在の社会の趨勢に起因するものではないと思うのだ。もっと正確に言うなら、この社会状況に至って現出してきたものではあるが、それ自体は人間が本来的に抱えている病理であるように思えてならない。ゆえに、この状況を打破するために真っ当に社会の変革に挑んでも、抜本的な解決には至らない。
どういうことか。
日本は充分に豊かになった。労働問題を語る際に必出のニートやフリーターも、飽食を享受している。この満ち足りた(はずの)状態で、一体何を求めていくことがあろうか。それでもなおハングリー精神を持ち合わせているのは、かなり病的だ。満腹中枢が壊れているとしか思えない。
つまり、やる気がなくて当然である。もうどこを目指す必要もないのだから。あとは、刹那的に快楽を追求することになる。
と、ここまでなら、ハッピーな人々が享楽的に遊ぶおめでたい話で終わるのだが、現実にはそうではない。
生存に余裕が出てくると、人間は余計なことを考える生き物らしい。今日の労働が、明日の豊かさという意味を持っていた頃はいい。しかし今や、生きる手段に使うメモリが減った分、脳は生きている意味を捻出するためにもがき出す。だから適正年収が気になるし、勝ち負けを決めたがるし、格差を鮮明にする必要がある。隣近所で比較して、自分の意味を確かめようと必死になる。
「生きる無意味さ」というかつては裕福なエリートだけのものだった悩みに、かなりの人間が陥るようになったのである。
だからこの閉塞感は必然である。この社会のあり方に欠陥があるわけではない(ないわけでもない)。欠陥があるとすれば、人間という生命体に、であろう。
したがって、「希望の持てる社会に」という問題提起は誤っている。「希望なんかなくても楽しい”世界”に」である。これはもう政治とか経済とかの話ではなく、宗教とか思想とかの話である。
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実務が嫌い
- 2008-11-04 (火)
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ここ数年、法律と経理に触れるたびに、「近代社会うぜぇ」という呪いに近い嘆息が漏れる。私のめんどくささを最大にかきたててくれるものどもである。こんなものを生業にできる人たちには全く頭が下がるばかりだ。
まだ学問としてなら、やってやれないことはないと思うけど、実務としては無理だ。出来ればそんなことは無視して生きていきたいが、奴らの方では律儀にも放っておいてはくれないので、知らないと確実に損をすることになる。もうつくづく生きるのが嫌になる。実は死の欲動が最高潮に達する地点はこいつらが迫るときかもしれない。わりと本気。
人類は複雑化した社会を形成した。一個の人間が、そのからくりの全貌を把握することはとっくの昔に不可能になっている。全てを把握している人がいないのにも関わらず、常に問題を抱えながらも社会がそれなりに機能していることが、子どもの頃の私には不可解でならなかった。
いや、今でも不可解である。そしてそれが気持ち悪い。関わることの全てを把握しておかなければ気がすまないからだろう。要するに完璧主義なわけだ。もっと手元で全部把握できる範囲で生きていければいいのに、と思う。
もちろん、未知に触れることが嫌いなわけではない。知らないことを知ることは楽しい。私は是非、立ち止まって「よくわからないこと」を突き詰めて考えたい。「よくわからない」まま走りながら、その先を走るための用を為す程度に考え続けるようではありたくない。でも地面に座り込んで、思索に熱中していると死んでしまうものらしい。
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