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2009-08

己の過誤は認めぬということか

今朝、駅前で自民党衆議院議員候補(現職)与謝野馨氏のうちわ形ビラをもらった。
表には与謝野氏の顔写真、裏にはご挨拶文が書いてある。

そのご挨拶文を読んで一瞬目が点になった。
以下抜粋。

私は、常に与えられた仕事を全力で精一杯やることを信条としてまいりました。
これからも、我が身を省みることなく知識と経験を生かして国民のための仕事をしてまいりたいと決意しております。

省みない、即ち反省しないのである。
これには絶句w
もちろん、1秒後に「(我が身を)顧みない」の誤記、すなわち「自分の心身を気遣うことなく(公務に尽力する)」という意図であると気づいたのではあるが。

私は別に揚げ足取りがしたいわけではない。
この誤記は、この選挙グッズの制作担当者のチェックミス(もしくは語彙力の不足)によるものだろうが、人為である以上はそういうことも起こりうるわけで、与謝野氏がそういう不遜な心構えでいるとは思わない。(ただ、重要な選挙に際して、少々弛んでいるようには思う。)

問題にすべきは誤記などではなく、挨拶文そのものだ。
「与えられた仕事を全力でやることが信条」というのはどうしたことか。いったい誰から与えられた仕事なんだというのも大いなる疑問であるが、所与の仕事をこなしていれば良い時期でないことは明白であるところに、この宣言である。

いつまで高度経済成長期の気分でいるつもりか。一生懸命やれば結果は後からついてくる時代は、とっくの昔に終わっているのだ。昨今の日本社会の問題(と叫ばれているもの)は大概、経済成長に裏打ちされていた「未来は明るい」という素朴な信仰が崩壊したことに関係している。
であればこそ、与えられたレールをただ懸命に走るのではなく、私自身がどうしたいのか、その欲望を発露させることにようやく人々の目が向きだした時なのだ。そして、そのように自己を充実させる個人が構成する社会は、経済成長による価値の先延ばしに依存するのではなく、“今ここ”で幸福を感じられるものに変化する必要がある。そんな時勢に、従来型の「とにかく何でも一生懸命にやります!」的ノーテンキな体育会系宣誓をしてもらっても困る。

たかがビラの挨拶文にここまでツッコミを入れるのもどうかとも思った。
それでも、この期に及んでこういう無内容な挨拶文を平気で掲載してしまえる現状認識の程度の低さに呆れたのである。

久々に漱石に出遭う

千円札の話である。

会計時に財布から取り出したところ、違和感を覚えてそれと認識した。次の瞬間、英世を代わりに差し出したのであった。

現行の千円札より、すっきりした印象を受ける。
偽造防止技術の粋を集めた装飾も、そう思わせる理由の一つだろうが、一番は肖像画の頭髪だろう。

というわけで、漱石先生には引き出しに滞在してもらうことにする。

終わりから考えてみる

およそ2ヶ月ぶりの更新だ。
いろいろあったけれど、わたしは元気です。

なんてことは、誰も聞いちゃいない。

ちなみに、別に落ち込んだりはしていない。
しかし、会う人ごとに「痩せたね」と言われるものだから、久々に測ってみたところ体重が少し落ちていた。BMIはジョッキー並みだ。

ところで、タイトルどおり、私は物事をとかく終わりから考えてみる癖がある。
と言っても、得たい結果を思い描いて、それに向かっての行動プロセスを組み立てる・・・などという話では決してないことは、私の友人たる読者なら断るまでもないだろう。
私の考える「終わり」は、とりもなおさず「死」以外にない。

ひとは畢竟、返事がないただの屍になるのである。ならば目標など立てて努力するなど、バカバカしくてやっていられないと考えるのが道理。
と言っても、人間のあらゆる営為を否定しているわけではない。他人から見える努力堪忍も、当人には悦楽でありうる。目標志向の行為も、「目標に向かって進む」という一連のプロセスが快であるならば大いに結構なわけだ。私はただ、今ここではないどこかの未来に価値を置こうとする妄想者に、同時にその価値を他人に押し付け普遍性を担保しようとする狂信者の鼻先に、髑髏を突きつけたいだけなのだ。

と、私のマインドはどんな話題でも生きること全体の問題に拡大(あるいは牽強)させてしまうわけだが、「終わりから考える」という癖は、もっと日常的なレベルでも姿を見せることに先日気づいた。
私は買い物をするとき、その物を捨てる瞬間を想像しながら買っているのだ。
人がみな屍になるように、(消費し尽くすものでない限り)物もいつかは不要になるときがくる。来るべきその日を想像することで購買意欲が減退して、結局買わないまま帰宅することがままあったりする。

具体的に言うと、家具がまさにそうだ。
必要性がない限り、ちょっと気に入ったくらいでインテリアを買うなんてことはできない。いずれ飽きる日は必ず来る。そうすれば、それを忍びなく思いつつも、捨てる決断をしなければならない状況が生まれる。それを想像するだに切ないし、既に(私の頭の中で)ゴミとなったそれにお金を投じることも躊躇われるのだ。
あとは、ゴミの捨て方が即座に想像できないのもダメだ。たぶん粗大ゴミになるんだろうけど、粗大ゴミってどうやって出せばいいんだっけな、などと考え出すと捨てるのが面倒になって買わなくなる。

この癖のおかげで、私の辞書に衝動買いという単語はない。

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