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2009-09
反応と責任
再三明言しているが、「プロ意識」とか「プロフェッショナルとして」とかいう類の言葉が、私は好きではない。
プロとして(対価・報酬を得て)仕事をする以上、それは期待に見合った乃至はそれ以上の成果を挙げることを信条とする、というような意味合いを指す。それ自体は、(残念ながら?)社会のルールであるわけで、遵守しないと生き辛いという程度でのものであって特段そこに異論はない。しかし、プロ意識がとても尊いもののように扱われる場に遭遇する度に、そのような社会のルールが設定されているという世界の理不尽に屈して生きる者たちの無自覚なルサンチマンを感じずにはいられない。
ゆえに私は「プロ意識」という言葉が好きではない。
「なぜそんなに真剣にできるのか」という質問には、「プロですから」と答えるのではなくて、「そこに山があるから」と答えてほしいのだ。
好きだからやっている者の前では、プロだから(好きかどうかはともかく)やっている者は霞む。結果が具体的にどう出るかなど問題ではない。好きでやってるのであれば、泣こうが笑おうがもうそれだけで輝いているのだから。結果を見て後悔して憾みに思うようであれば、それは好きでやっているとは言わない。世間的にどんなに最悪だとののしられようと、「わが生涯に一片の悔いなし!」と叫べる者のことを言っている。
世界は理不尽に満ちている。
まったくわけのわからない結果が襲い掛かる。その中でわれわれはどれだけ輝けるだろうか。それは、この世界に素直に反応できるかにかかっているように思う。
まず、己の内発性に身を任せること。そして、その結果をそのまま受け入れること、きちんと反応を返すことだ。結果などどうでもいいという前述の主張に矛盾するように聞こえるかもしれないが、そうではない。どんな結果であろうと、それはそれで別によく、悲しければ泣けばいいし、楽しければ笑えばいいし、悔しければ歯噛みすればいい。ずっとそうしているわけもなく、そのうち飽きてくればまた次の内発性に身を任せ、そこにある山に向かっていけばいい。
目の前の事態を受け入れられず、特定の結果に固執すると、恨み妬みそして苦しみが発生する。自分の妄念に凝り固まって、世界に反応できていない。
世界は理不尽に満ちている。
ルールは社会のものであって、われわれは世界的には自由だ。自由には責任が伴うものだが、それこそが世界に反応するということだ。
内発性を発露させ好きに生きればいい。そのためには、理不尽にもたらされるその結果を受け止める責任を負うことになる。これはそれぞれ独立したものではなく、同時にしか成立しない。世界にきちんと反応を返せる、すなわち世界がどうとでもありうるということを直感的に知っている者そしてそれを受け入れる用意のある者こそが、内発性を開放できる。
責任responsibilityは、反応responseできるということなのだ。
以下は、世界への責任について描かれている素晴らしい作品。(主人公は世界に反応できていない)
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