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2010-01

此処は仮寓である

年が改まって最初の記事。
グレゴリオ暦の正月に何の意味がある
などと嘯いてしまう相変わらずな私であるが、一通りのご挨拶を申し上げましょう。
明けましておめでとうございました。
本年もよろしくお願い申し上げます。

さて、来月下旬に居を移す予定がある。
都市圏を移動わけではないので、以後も変わらずお付き合いを。

現在の自宅に引っ越してきたのが2007年3月であるから、およそ3年ほど住んだことになる。
狭い部屋ではあったが、大過なく過ごすことは出来た。幸い大家さんがたいへん親切な方で、いろいろお世話になったし、またご迷惑もおかけした。有難いことだと感じている。
そんなこともあってか、思ったより長く住んだという印象だろうか・・・というのも、そもそもどれほどいるかなど考えていなかったのだが、やはりここは仮寓であるという意識はどこかに強くあったような気がするからだ。
思えば、「ここは仮寓である」という想いは、大学入学とともに上京した頃より常にあるように思う。

今の部屋に限らず、私の部屋に来た友人の感想で多いのは、「生活感がない」というものだ。散らかってはおらず、最低限の整理はしているものの、飾り気が無く殺風景。利便性や見た目の演出も含め、生活する空間として工夫を凝らすということがない。部屋の片隅には、引越しの際に使ったダンボールないしは梱包材が、そのうち使うはずだという憶測のもとに保管されたままになっている。
このような部屋のあり方こそは、「ここは仮寓である」という意識の表れなのではないか。ふとそう思った。

そして、この意識は私の実存そのものを貫いているようにも思えるのだ。
今生は仮寓である、と。

私の感じている、落ち着かなさ、居たたまれなさ、さらに言うなれば生きにくさは、これが為なのではないだろうか。そう思ったのである。
私は此処にずっといるわけではない。ひと時の間、滞在しているに過ぎない。いつでも出立できるようでありたい。早く此処での生を終わらせたい。ゆえに、社会への注力が煩わしく、諸事面倒に感じるのであろう。

では、此処が仮寓だとして、私はいったいどこに行こうというのだろうか。
この思考は、究極的な到達点を、形而上学的理想を措定してしまっているものではないだろうか。これこそは、私が忌避し唾棄してきた目的志向の罠に他ならないのではないか。

此処でいいじゃない?

此処は仮寓である。そして次に住む処も、やはり仮寓であろう。
それでも、私には“いまここ”しかない。いや、いまここでもう既に十分に満たされているはずではないのか。どんなに仮寓の形相が変わろうとも、私がいまいるところはここでしかありえない。どこかに行かなければならないわけでもない。
では、この仮寓を楽しもうか。ようやくそのようにも思えるようになって来たところだ。

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