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2010-02
現世利益と執着の解放
- 2010-02-12 (金)
- ブログ
金銭を稼ぎたい、名声を博したい、地位を築きたいなどの執着を持っている限り、絶対安寧なる心境には到達できないとしよう。ひとえに、いかにして執着を絶ち、世界の混沌なるままでの肯定に至れるかが、人生の目的だと言えるだろう。もっとも、そのような境地に行き着いた後には、手段としての人生は確たる輪郭を既に失っているはずで、敢えて語るに足らぬものとなっているのではあろうが。
さて、このようなものとして「生きること」を捕捉する私にとって、冒頭のような現世利益を追求するという行為にコミットすることは難しい。
ならば、財産や地位や名誉なる俗物に心を動かされないかといえば、答えは否であるのがかなしいところ。多少なりとも、それらにまつわる羨望や嫉妬を生じないわけにはいかず、執着に絡め取られる。といって、執着を起爆剤に現世利益の追求に邁進できるほど単純ではない。都度襲いくる生の無意味さに一時的には圧倒される現世利益への欲望は、怠惰と無気力に道を譲る。
かくして、存在の耐えられない軽さに絶望する人間は、執着に塗れた俗人に唾を吐きながら、さりとて死に至ることもできず、己が執着に煩悶する。
さて、完きとは言わぬまでも、いくらか執着の罠を逃れているのではないかと思わしめる者に、元々は激烈な執着者が少なくないことを思う。金を稼ぎたいとか、有名になりたいとかいう欲望の達成に一意専心し、願望を達成していく中で執着が剥がれ落ちたのではないか。執着を落としてあるがままの世界を受け入れるようになるために、彼らにとって現世利益の徹底追求は不可欠なプロセスだったのではないかと、かなりの確信を持って思えてくるのである。そうであるとすれば、私はそのような俗人を嗤うことはできない。
執着を絶つために禁欲をするつもりがない私は、このままでは執着に捕まり続けてしまうであろう。であれば、いっそのこと執着に塗れて現世利益を追求してみればいい。だが、この生き方をできるかと自問したとき、私には甚だ心許なく思われる。この自信のなさは、己の能力不足を憂うことから来ているというよりは、そもそも何かに懸命になるということに無理を感じるがゆえのものだ。ちょっと私にはできそうもないし、そうではない執着からの解放の仕方があるのではないかと思われて仕方がない。巷に溢れるポジティブ言説に対して私が噛み付いているのは、どうもこのあたりの私の葛藤によるのだと思う。
そもそも、現世利益を追求することによって、むしろ執着が剥がれることをどう理解すべきか。思うに、それは己の執着を飽くことなく凝視し続けたが故なのではないか。この点で出家者のやっていることも同じで、彼らは禁欲することで己に内在する執着を具に観察しているのではないか。正面から向き合うことで、執着の実態を暴き、その空虚なることを看破しえると言えるのではないか。
内発的欲求に身を任せること―「夢を持とう」「好きなことで生きる」。あるがままに世界を承認すること―「起きていることはすべて正しい」「きっとよくなる」。
これらは、執着を剥がした結果として至れる境地であって、執着を剥がすための助言としてはあまり用をなさないのではないか。執着に捕まっている間は内発的欲求を見逃してしまうし、世界は曇ってよく見えない。
現世利益の追求や禁欲の勧めは、ひとつの処方箋になりうるかもしれない。したがって、「(内発的)夢を持とう」いう言説を誤読して、客観的評価に基づく状態を夢と規定して執着に邁進することも、プロセスとしては間違っているとは断じられない。
しかし、どちらも取れないような不純な者―禁欲するほど一途に真面目でもなく、現世利益を追求できない程度にはメタになってしまった者―はいかにして、執着に向き合い解消していくことができるのだろうか。そのような方法がありうるのだろうか。私はそれが知りたい。
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