- 2007-06-27 (水) 22:12
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日本の神道でいう八百万の神は、いわゆるGodではない。英訳するならばSpiritsに近い。再度日本語に戻すと、精霊といったところか。
にもかかわらず、これをキリスト・イスラム圏でいうところの唯一神(まぎれもないGod)と混同するから話がややこしくなる。崇拝対象が唯一であるか否か、という議論は比較すべき神が同一次元上にないところに問題を見出すべきであろう。
Spiritsは、そこかしこに存在している。
我々の住む三次元上では明晰に確認できないが、たしかに存在するものとして受け止められる。一部の者、一部の場合においては明晰に確認できるのかもしれないが、再現可能な形での存在の実証は得られていない。
目に見えないもの、手で触れられないものではあるが、我々ヒトが存在しているのと同じように、存在するものとして受け止められる。我々はそこに、力と意志とを感じる。見えない力を畏れた人は、太古からそれらを祀り、時に翻弄され時に利用してきた。そう、Spiritsは偶像たりうる。
一方のGodは存在するものではない。それは、存在そのものである。
かつて、私の友人が「神は数式で表せるのではないか」と言った。まさにその通りではないか。
この世を支配している法則、運命、真理すべてが即ち神と呼ぶべきものなのではないか。Godは因果律であり、運動方程式であり、星の運行である。Godは偶像たりえないのだ。
ゆえにGodは意志と力を持たない。私が今ここにこうして在る、ということはその意志でも力でもなく、この因縁そのものがGodなのである。
神に救済され完全なる幸福に包まれるということは、おそらく宇宙の真理に到達して人間の苦悩のメカニズムを明晰に知るということであろう。正しく表現するならば、神が救済するのではなく、神を知るということだ。ただし、知るという能動的に見える行為も、神の範疇である以上、それは知らされると表現するのが適当かもしれない。
Godについて知ることは、Spiritsの存在を否定することではない。しかし、Spiritsの崇拝では完全なる苦しみからの解放は望めない。それは次元こそ違えど、同じ人間であるところの他人に助けを求めるのとさして変わらないからだ。偶像崇拝が禁じられる所以であろう。
だからといって、存在する以上無視するよりうまく扱っておいた方が良い、というのが現実的見解だ。一次元上の社会性とでも呼ぶべきだろうか。「神仏を尊び、神仏を頼らず」はいよいよ至言である。
明晰には認識できない存在ながらも、Spiritsとうまく付き合いながら、Godを知ること。これが私の神についての暫定的な見解である。
それでどうなるかは、神のみぞ知るというところだ。
Comments (Close):4
- 樹翳 07-06-27 (水) 23:26
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本旨とはズレますが、
Godを神と訳したこと自体が間違いですね。
Chinaのように天主とすべきだったと思います。 - じゅん 07-06-28 (木) 0:21
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お久しぶりです。
興味深いエントリーですね。俺は「神を信じますか?」と問われれば、
「人間や自然の力(たとえば物理の法則)を超えた何かがある、ということを信じるか、といわれれば信じます。」
と答えます。これってGodなのでしょうか。Spiritsなのでしょうか。
- 玄鳳 07-06-28 (木) 1:53
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>樹翳さん
たしかに天主のほうが良い訳ですね。
すると、皇帝がイエスと対応しますね、これは。God=神に慣れきっているので、普段から違和感はなく使っていますが、日本人だと神が人間のように意志を持っていたり力を振るったりするもののような錯覚を受けますね。
まぁ、一神教圏の人々がどういうイメージでGodを捉えているのかは良く分かりませんが。 - 玄鳳 07-06-28 (木) 2:07
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>じゅん
ありがとう。
こういう話題は、退かれるリスクを恐れず書いていますよ(笑)それはSpiritsとして捉えてるんじゃないかな。Godは信じるものではなく、知るものだから。さらに言うと、人知を超越しているのではなく、包含しているものだと思う。
でもその質問形式はキリスト教っぽいよね。私も八百万の神的なものは確信的に存在すると思ってるよ。