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個体差というビョーキ

オーランド・ブルームは難読症らしい、ということを初めて知った。→wikipedia
今は症状は改善したと書いてあるけど、台本を読んで、理解して、記憶しなければならない俳優という職業でよくやりますね。

続いてWikipediaで難読症の項を読んでいて思った。
実は個性というものは、こんなものなのかもしれない。

この症状は障害であると認められているので、読んだことが理解できなくても、「ああ、そうか」で済むのであるが、もし障害であると認められていなければ、彼は不真面目だの注意力散漫だの頭が悪いだのと非難の対象になりかねない。
「障害」であれば許されるらしい。「障害」とは認められていない不真面目さは許されないらしい。その不真面目さが「障害」であると認定されるかどうかの線引きはどこでされるのかは検討されない。

病気についても同じようなことがある。
無気力な青年がいたとする。「しっかりしろ」「ぼっーとするな」「頑張れ」などと叱咤されるかもしれない。
もし彼が鬱病だと診断されたとすると、誰も「しっかりしろ」とは叱らなくなるはずだ。
病気だったら仕方ないのか。じゃあ、病気かどうかをどこで判断するんだ。医者だって10年前と今とじゃ全く判断が違うのだ。結局は人間がその都度便宜的に線を引いているに過ぎない。

人はああしろ、こうすべきだ、それはけしからんと他人を批判する。
だが一度、病気だ障害だと認定されると、手のひらを返したかのように何も言わなくなる。(言い続ける者もいるが)だからこそ不当な批判を無くすために、病気や障害をきちんと認定しようという考えもあるが、どこまでがそれと判断されるべきかなんて分かりっこないと思う。
誰一人として同じではないわけだから、そもそも「健常者」「健康体」を想定していることに無理がある。そこからある一定程度逸れたら「障害」であると認定する、などということができるだろうか。中心点ははじめからぶれている。

だから、いっそのことみんなビョーキということで認定してしまえばいいのだ。
眼が見えないのも、背が低いのも、頭が悪いのも、顔が不細工なのも、耳が遠いのも、脚がないのも、滑舌が悪いのも、二次元しか萌えないのも、胸が小さいのも、地図が読めないのも、やる気がないのも、体臭がきついのも、脚が短いのも、品格がないのも、数学ができないのも、機械に弱いのも、不真面目なのも、猫背なのも、傲慢なのも、毛深いのも、小心なのも、引きこもりも、怠け者も、左利きも、ヲタクも、痴呆も、斜視も、ハゲも、デブも・・・
みんなみんなビョーキである。ビョーキだから批判の対象にはならない。だってビョーキなんだから。
努力できないのだってビョーキなのだ。後天的努力不全症候群ってのがあってもよさそうだ。

それがおかしいというのなら、ビョーキかそうでないかの境目を明晰に説明できなくてはならない。その境目はその時の人の都合で変わっていくあってないようなものである。明晰に説明などできない。
我々は他人に対して「~べきだ、と思う」ということしか言えない。

個性を大切にするということは、色とりどりの花を眺められるような心躍る幻想を抱かせやすい。
だが、実際にはそんなメルヘンチックなものではなく、溢れんばかりの理解不能な輩に対し、自分の価値基準で以ってバッサリと処理することができない実にグロテスクな世界なのだ。
、と思う。

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