Home > ブログ > 闘ってどうする、勝ってどうする

闘ってどうする、勝ってどうする

仏教では命ある者のいきる世界を六つに分類して「六道」と呼ぶ。即ち・・・

天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道

である。後者になればなるほど、より苦しみに満ちた世界であるとされる。
そして、死ねば生前の行いにより、どの世界に生まれるかが決定され、再び生を受ける。それが延々繰り返される。それが輪廻転生である。
たとえ天道に生まれても、この六道をぐるぐると廻っている限り、苦しみからは逃れられないのである。苦しみから解放されるためには、この輪廻を断ち切り六道の外にでることが必要とされる。それが解脱である。

さて、私は仏教の専門家ではないので、これ以上仏教の思想に深く踏み込むことはしないが、この考え方を基として私の思うところを書きたい。というのも、私がいつも読んで参考にしているブログに気になるエントリーをみつけたからだ。この記事に反応するものとして書きたい。

「競わない、比べない、自分に出来ることをする」という姿勢でいては、何の発展性もなく、おもしろくもないよ、という主張である。いかにも、近代自我的な主張だ。現代社会において権威的に良しとされるスタンダードな姿勢だ。

結論から言えば、「競って、比べて、努力して、勝って、喜びを味わう」というスタンスで生きたいと思えるのならそれはそれで構わないけれど、それでは永遠に闘い続ける苦しみから逃れられませんよ、と申し上げたい。

まずこの方は、「自分に出来ること」というのを誤解している。このブログの筆者は営業活動やブログ執筆などでさまざまな努力をされてきたようだ。このエントリーからも、その経験や想いがとてもよく伝わる。人と比べ、人と競い、努力を重ねることでスキルを伸ばしてきたようで、自分に出来ることだけをやっていたら現在のような力はつかないと言う。だが、そうやって努力重ねて学んできたことが、努力しようと思い続けられたことが、彼にとっての「出来ること」だったのである。ここで言う「出来ること」とは能力的なものを指しはしない。

ここで、先ほどの六道である。そう、目指すは天道ではないのである!天道を目指して頑張っている(現世で徳を積もうと努力している)限り、永遠に苦しみの世界を巡り続けるのだ。
何もこれは一つの人生をメタ的に捉えた場合に限らない。上を目指して闘っている限り、苦しみは去らない。

もちろん、勝てば(成功すれば)一時的には嬉しい。私もそれが分からないわけではないし、そんな喜びを味わいたくないわけはない。(もっとも私は勝つ喜びよりは、負ける悔しさの方が圧倒的に強く感じられるし、勝った瞬間にも虚しさと恐怖は去らない)
しかし、その喜びは永続しない。勝利の幸福を追い求める限り、永遠に闘い続けなければならない。追い求めるのは良い。だが、成功の幸福は、それが刹那的な虚しいものであることを自覚しているのでなければ、あまりにも悲しい。

そもそも、元となっている「競わない、比べない、自分に出来ることをする」という言葉自体は、誤解を招きやすい。特に「出来ることをする」という部分が。私は「出来ることしかできない」と言い替えたいと思う。
六道を脱するには、努力は無駄である。むしろ努力すると、泥沼的に苦しみに引き摺りこまれる。一般的なことは「~しよう」と思わないと、それは実現しないし、少なくとも思って実行することで実現に近づく。だが、究極の解脱は「解脱しよう」と思ったら解脱できない。泥沼から逃れようと思ったら、誰かに引き上げてもらうしかない。それが仏の救いなのだろう。
そこで「救ってもらいたい」と思ったら駄目なのだ。じゃあどうすればいいのか。その「どうすればいいか」という発想を棄てよう。

そう、我々には受け入れることしかできない。諦めて、出来ることをするしかない。
やるべきことが出来なくても、悲嘆に暮れる必要はない。でもやるべきことが出来なかったら、当然やるべきことを努力するのより、物理的に悪い結果になるのは避けられない。努力と成功の因果関係は否定しない。でも悪い結果を嘆く必要もない。色即是空。でも悪い結果に対して苦しいと思うのが人間。ならせめて悲しむことにして、憎んだり呪ったりというのはやめた方がいい。というか、やめてほしい。

こういうことを文章にしても、詮無いなあ、と思う。
なぜなら、大抵の人は反発するものだと思う。頑張っている人ほど、そうだろう。諦めなければならない、というのはとても受け入れがたい。あるいは、もっと低レベルな「努力しない」人からは正当化の盾として受け取られるに過ぎない。

普通に見れば、今の私なんかは低レベルの「努力しない」人と見紛われてもおかしくない。そんな人を見ると苛立ちや腹立ちを覚える人も少なくないと思う。
ほらほら、そこに苦しみが潜んでいるのですよ。人と比べる、競うことの苦しみが。自分には価値がある、自分の人生は意味がある、と誰でもそう思いたい。だから比べてみる。そんなときに、もし自分と全く違う価値観でもって、のうのうと生きている人がいると腹が立つ。不安になり、恐怖が襲ってくる。自分のこういう生き方は正しいはずだ、間違ってないはずだ、とそう思いたい。

比べて競って頑張れるなら、頑張ればいい。努力は物理的に良い結果を生み出す可能性がある。
努力しても報われない可能性があるという虚しさもあるが、物理的に良い結果でも人は完全に満たされないという虚しさもある。それを理解したうえで努力するならいい。それが出来ることをする、ということであろう。

人生経験も浅い若造が、努力しないお前が、何を分かったようなことを言うか、と思うだろう。私もそう思う。
だがそう思った瞬間に、「人生経験が浅い若い奴よりは、自分は上なはずだ」「自分は頑張っているんだから、こいつよりは」という思いが、そこにはある。そう思いたい、そうであると信じたいという思いが。そうであってくれなければ、それまで信じてきた、信じようとしてきた自分というものの価値がガラガラと崩壊する。だから否定して掛かる、自分を守るために。比べて価値を見出そうしている限り、この虚しい闘いは続く。比較することは苦しみなのだ。
「比べなくてもいいよ」でもなく「比べるな」でもなく、「比べるのは苦しみですよ」である。でも、他と比べて自分の価値を信じたいと思う。それが人間。苦しみの種を内包している。じゃあどうすればいいのか。だから「どうすればいいのか」という発想を棄てよう。

やっぱりこうやって意見を表明することは詮無いなあと思う。人は基本的には、本当にそれを味わわない限りは理解できないことだからだ。
だが、それでも良い。
そして私にも、こうして主張して真理を人に伝えたい、という苦しみの根源たる執着がある。私は正しいはずだと思いたい執着がある。虚しい業だと分かっていながら、吐露せずにはおかれない。
一応言っておくが、私の日々はそれなりに楽しいよ。たとえばこんなことを述べたりするのも楽しかったりする。

Home > ブログ > 闘ってどうする、勝ってどうする

RSS feed
玄鵬のつぶやき
Internet Exploreは激しく非推奨です。ただちにブラウザを変えてください。

Return to page top