- 2007-10-10 (水) 21:49
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私が抱き続けている気持ちの悪さの一つは、人間社会の秩序の必然性のなさなのだ。それを感じ取ってしまう私に”世間一般”の生き方が出来るはずもないのである。そう、まさしく必然性のない”世間一般”の生き方が。
と思ったが、この気持悪さは尾崎豊が叫び、大勢の若者が共感した類の感覚でしかないことに気づくに及んで、自分のエリート主義に虫唾が走る。私はせいぜいその気持悪さの正体を感覚的にではなく、理性的に理解したに過ぎない。
この感覚はきっと特別なものではない。
だが、彼らがいつしか社会に馴らされ、あの気持悪さを消化していくのに対して、言語化された私の違和感は鮮明さを増す。
ヒトが自然界の整然とした秩序に、追放された楽園に戻れない以上、この必然性のなさは何としても解消されえない。ヒトは「とりあえず」の決まりごとで進むしかないのである。であるならば、その恣意性に馴化してしまう方が生き易いに決まっている。
「仕事」をすること(多くは会社勤め)で何らかの拘束を得る一方で、生存の糧としての金銭を得るというシステムそれ自体に、先験的な気持ちの悪さを感じないのであれば、そういう”世間一般”の生き方を選べば良い。あとは自分の趣向で「仕事」と「プライベート」のウエイトを考えれば良い。
そうではあるが、馴化した方が(無論、生きる上での労苦はあるが)容易であるのは分かってはいるが、人間社会の秩序に収束されない意味付けを持ってしまった私は、それを無かったことにはできないし、したくもない。いったい私はどこに行けばいいのか。
「そんなことを考えても仕方ない」という非難を、実に真っ当な非難を真正面から受ける方向にしか道はない。私の足は既にそちらを向いている。仕方がないかもしれないが、考えてしまったことをキャンセルすることはできないのである。
「ねぇ、どうして人を殺しちゃいけないの?」
この疑問を持ち続けたまま大きくなった幼児は人間社会では生きていけない。
どうしてもこうしてもない。”この”社会ではそうと決まっているのだ。
そうと決まっていることを身体に染み込ませることを大人になるという。
“この”社会が恣意的ながらもそうと決まっていることを理性的に理解した大人な幼児は、もっと他のありえる社会の秩序を想像する。
少数いてもいいのだよ、こういう奴が。そう思って頂きたいものだ。
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