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他人を変えたい

未来と自分は変えられる。
過去と他人は変えられない。

と、よく言われる。
変えられないものに拘泥するより、変えられるものに焦点を当てて働きかけたほうが生産的だよ、という言説。
いや、全くその通り。私も常々そう思って生きている。

だから、やせ我慢でも何でもなく、他人を羨ましいと思うことはほとんどない。絵画や音楽など、芸術的素養に溢れる人に若干の嫉妬を覚えるくらいだろうか。
過去を悔いることもない。嘗ての大失態をふと思い出しては独り愧赧することはあるものの、「過去に戻れるとしたら、いつをやり直したいか」という問いには答えを持たない。

それでも他人を変えたいと思ってしまう、この気持ちをいかんせん。
もちろん自分の我侭を通すために他人を変えたいのではなく、相手に良くなって欲しいという想いである。
だが、そこには自分が正しく相手が誤っているという思い込みが確実に介在している。さらに、相手を啓蒙ないしは活眼させてやるという虚栄心が潜んでいることも否定し得ない。

結局は自分のため、自分の快楽のためにしか人は行動できない。
それはいい。相手の喜びを自分の喜びとして包含できれば、全く問題はないのである。自分のための行為が、即他人のためにもなる。私はそれを愛と呼ぶ。
問題は相手にとっての幸せが何かを正確には把握できないことにある。だから善意から出た行為が、宗教の勧誘者にありがちな単なる「善意の押し売り」になってしまう。悪意を自覚するものよりたちが悪い。

これこそが他人を変えようという想いが、思い上がりでしかない理由である。
我々は他人を変えることはできないし、そもそも他人を変えようと思ってはならない。それでも、善意から、ほんとうに善意から、少なくとも善意の含まれた想いから、我々は他人を変えてあげたいと願う。でもそれはどこか違っているんだということに気づき、煩悶する。
善意の発起が苦悩を発生させている。この矛盾をいかにすればよいのか。

おそらく、それは他人に自分の幸せの所在を見ているからだと思う。
他人がどうであれ、私は私の心の在り様ひとつで幸せなのである。これはまず間違いない。そうすると、自分の幸福のいかんを他人に依存してしまっているのは、私の心が幸せでないからということになる。
おかしい。自分が幸せに満たされていたとして、隣でのた打ち回っている人がいてもそれは幸せなのか。

それは、のた打ち回っている現象に「苦しい」というラベルを貼っているから過ぎない。往々にして本人も「苦しい」というラベルを貼っているだろうが、実際に「苦しい」ものとすべきかどうかには関係がない。「肉体を持った人間の一生」という枠内で見た場合には、それは「苦しい」ことなのであろうが、その枠を一歩出てみればそんな意味づけはナンセンスなのかもしれない。喩えて言うなれば、ボクシングという競技を知らない人が見れば、それは忌まわしい殴り合いにしか見えないように。我々はこの競技の外の視点を夢想することはできても、実際に立つことはできない。だから「苦しい」と意味づける必然性はない、という中途半端な見方をするのがせいぜいだ。

ようやっと分かってきた。変えてあげたいと思っていた人も、本人の自覚の無いままに競技をしているに過ぎないのだ。
だから強いて「救ってあげよう」と思う必要はないし、強迫的に感じることもない。助けを求められたら快く応じればよいのだ。
それにしてもしんどい競技をやっているものだと思う。でも大丈夫、人生ではボクシングのように闘わなければばならない相手なんて、きっとどこにもいない。

その意味でこのメタファーは全然うまくない、と我ながら思う。そして、やっぱりボクシングは野蛮だと心のどこかで思っているのである。

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