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蜃気楼モデル

ニーチェが喝破したとおり、近代に入ってから、それまで天にましましていた神は死んだ。それはかつて太陽のように、天上から我々を照りつけ、その影をはっきりと浮き上がらせることによって我々自身の確かな存在を担保してくれていた。
だが、もうその光はない。我々は影から自由になることができたが、それゆえに自分の存在の根拠を失ったことによる不安を抱えなければならなくなった。「ナゼ私ハ此処ニ生キテイル」のかが分からない不安である。

だが、その問いに答えてくれる神は死んでいるのである。そして、それははるか前方に「明るい未来」という名の蜃気楼となって立ち現れた。
神の呪縛から解き放たれた我々は、いっせいにその蜃気楼に向かって走り出した。走っていなければ、いつ存在の根拠の薄弱さゆえの不安に襲われるか分からない。立ち止まれば自分の影の無さに怯えるほかない。ただ前方の蜃気楼を、未来を夢見て走り続けなければならないのだ。

現存在の根拠への疑問は、未来に向かっての上昇によって無化されている。
「ナゼ私ハ此処ニ生キテイル」のかは分からなくても、未来にはより明るい生活が待っていることが確信できれば、とりあえず人は生きる活力を得られる。言うまでもなく、それは問題を先送りしているに過ぎないのだが、それでも永久に先送りし続けている途上で死ねばそれでハッピーということにしているようだ。
人生の目的は成長とか発展であるとぬけぬけとのたまう言説を聞くや。成長・発展はそれ自体、到達できるものではありえない。振り返れば「した」ということが確認できるだけで、永久に追い続けなければならない代物である。まさに、決してたどり着けない蜃気楼と言える。

そしてこの蜃気楼を現出させている貝が、貨幣である。
我々の欲望を一身に吸収し、「もっと、もっと」と急きたてる。おかげで過剰な欲望のベクトルは一方向に収斂され、一応の秩序が保たれる。それは明るい未来に向かって走り続ける動的な秩序である。

我々の生きている資本主義を蜃気楼のメタファーで説明してみた。

これで良いのだろうか。あるいは、それで良いのかも知れない。現存在への根拠を問う行為は秩序を乱すものであるのかもしれない。
だが、この不安が誰もが本質的に抱えているものであり、いつ発現するかも分からないという可能性がある以上、それを問い続けることに意味があるという確信はある。「そんなこと考えても仕方がないよ」という声に耳を貸すつもりはもうない。

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玄鳳のハネ 07-12-01 (土) 4:26

次元のはざま

気がついたら右ディスプレイのデスクトップ背景が長門になっている。 むろん戦艦のそ…

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