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相対主義の罠

ものごとには正義も悪もなく、見方によって全く違ってくる。基準にしている座標系が違えば、対象が同一でも座標が異なってくるのは道理だ。何が正しくて、何が誤っているか、という絶対的な判断はできない。唯一無二の揺るぎなき真理などありえない。

だから各自がてんでばらばらに判断すればそれでいいのだ。
相対主義はともすると、そんな投げやりでいい加減な思想になりがちである。

そして、絶対的な真理(正義)があると信奉している、あるいはそれを疑いたくない頭の固い人々は、そんな誰もが自分勝手に振舞っていては社会は崩れてしまうし、決まった価値がないといっていたのでは何も物事は進まないではないか、と相対主義を批判する。
軽く反論しとくと、「崩れてはいけない」「発展すべきだ」という考え自体が既に絶対的基準に則っている。その根拠はどこにもないよと言っているのが相対主義なんだよ。

でも、そう言っている本人も、「真理なんてありはしないのだから、何でもあり」というのはちょっと違う気がする。
「今日から俺はオレ語を話すぜ!」とかぬかして、突如擬音語でも表現できないような音声を発して言語を操っている気になっている奴がいたら、それは違うといいたい。いや、私だったら放置する気もするが。
少なくとも、それは当人にとって何のメリットもないし、少なくとも幸福ではありえない。いや、そもそもメリットなんぞを考えることに意味などない・・・というより、意味があるかどうかという思考自体がナンセンスなのだが。

そもそも相対主義は、どういう判断・解釈もそれはそれで良いという定義からいくと、絶対的な正しさがあるはずだという判断図式も肯定されるべきものとなる。すると、これが確実に真だといえるものが存在するはずであって、それは相対主義に反してしまう。かくして相対主義は自壊してしまう。

じゃあどうすりゃいいのさ、と思ってしまう。
でも良く考えてみたら、別にどうということはない。どうもしなければいいのだ。
理屈でもって整合性をつけようとすることを放棄しようってのが相対主義じゃないのか。絶対的な基準なんてないんだよー、って「主張」する必要はないんだ。主張するのは絶対主義の仕事だ。だいたい、「主義」ってことばに力がこもってて困るよね。そんな腕まくりしながら意気込んでやるようなことはないんだ。

だから具体的にはどうすればいいのか。
すればいいも悪いもない。すでにやっている。見るままに見、聞くままに聞き、感じるままに感じればいいのだ。それだけで私たちは十分に楽しいじゃないか。

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