- 2007-12-26 (水) 2:12
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我々には法を犯す自由だって与えられている。
盗んだバイクで走り出すこともできれば、斧で老婆を殺害することもできる。
もちろん、刑法によって裁かれるに決まっているが、罪を犯して刑務所に入ることを選択することだってできるということは知っておくべきだ。もちろん、警察の目を逃れて続けようとすることだって選べる。
我々に許されていないことは、人を殺すことではなく、人を殺して社会的制裁から無関係でいることだ。
ここを取り違えてはいけない。
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- Renne 07-12-26 (水) 8:05
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リバタリアニズムと通ずる物を感じますね。
- 玄鳳 07-12-26 (水) 14:46
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なるほど、そうか。
政治的な意味は含んではいないけどね。 - 紺碧の空 07-12-27 (木) 0:20
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お久しぶり。
その辺は玉響さんあたりの意見を聞いてみたいですね。「自由を与えられている」のか「自由を与えざるを得ない」のか。民法だったら前者、刑法だったらどちらかといえば後者でしょうか(違う見解もあるかもしれません)。憲法、民法、刑法、あるいは手続法で違うのかもしれません。
そもそも「誰から与えられているのか」という命題も難しい問題です。
自分は法学部に進みながら結局司法の道には進みませんでしたが、いまだにこういう問題は非常に面白いと思います。人間の苦悩と叡智の歴史だと思います。
- 玄鳳 07-12-27 (木) 7:27
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どうもお久しぶりです。
ここで言う自由とは、我々は自由(であるべき)か否かを論じる以前に、アプリオリに我々が有している自由さのことです。自由というより可能性という言葉を使ってもいいかもしれません。
法は社会の恣意性の産物であり、前日の記事の言葉を使えばまさに「ひとつ」の座標系に過ぎません。私の主張は「そのような座標系を(脱すること不可能だけれど)超越しよう」というもので、関心領域は法学というよりむしろ宗教や哲学ですね。