- 2008-01-20 (日) 23:43
- ブログ
もし私が社会的にやりたいことがあるとするならば、人がもう努力しなくてよくすること。
住むのを楽にするために住居を造ったり、移動を楽にするために乗り物を造ったりするのと同じように、生きるのを楽にするために頑張らなくてもよくすること。
頑張らなくても良いとはいえ、寝っ転がっていては当然何も生産されないし、何も事態は変わらない。
当然そうだよ。
だけど、私がやりたいのは、それでもいいんだ、というようになるということ。つまり善悪・正誤を完全に超越するということ。
人間は飽きっぽいから、寝っ転がっているのにもすぐ飽きる。飽きたら面白そうなことをやってみる。とても面白いことが分かれば、寝食も忘れてそれに熱中する。何が面白いかは人それぞれだから、各々が楽しいと思うことにそれぞれ熱中する。
楽しいことに熱中しているだけなので、そこに「頑張り」は要らない。それは努力と言えるかもしれないけど、もう努力の必要性も重要性も要らない。うーん、楽しいと思わないかい。
でも、それぞれが好き勝手やっていたら、世の中まわっていかないじゃないか、と仰る?
ええ、社会がうまくいかなくて、それで結構。だって善悪を超越しているんだから。
そうそう、だから私がやりたいのは、「何もしなくてもうまく回ること」ではなくて、「うまく回るかどうかが気にならなくなること」なのだ。
寝っ転がって飢えても、別にそれは悪くない。悲しむべきことでも恐れることでも、ましてや非難されるべきことでもない。でも寝っ転がっていたところで、いずれ飽きるから、きっと何かやってるさ。
それは所詮、理想論だって?
うん、私も激しくそう思う。あんまり人々を啓蒙する気もないし、そんな社会に出来る気も全くしない。
それでも私にとっては、意味がどんどん剥落している。楽しいか楽しくないか、好きか嫌いか、という私自身の感覚にしか意味を感じないよね。と言っても、まだ論理で推し進めようとしている段階で、私にも社会のノイズはきっちり鳴り響いている。ゆえに、嫌なことでも義務感に駆られてやっているし、我慢すべきときは我慢して努力してる(それでも相当怠けているけどね)。
だから私は早く安心して寝っ転がれるようになりたいと思っている。そう、涅槃のポーズね。
あ、ちなみに私がその域に達したら、社会がそんな理想郷になっているかどうかはどうでも良くなるので、たぶん私は何もしないよ、気が向かない限りね。
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- あすか 08-01-21 (月) 9:33
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「善悪・正誤を完全に超越する」って組織の中にいたら
確かにできないですね。
心の持ちようの問題だから関係ないのでしょうか!? - 玄鳳 08-01-21 (月) 13:32
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内側にいても超越はできると思う。
ただ、ここに書いたことはもちろん組織の論理に反することだから、「みんなで」超越することはできない罠。