- 2008-05-12 (月) 12:03
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叶えてあげると言われても、私は何も言えない気がする。
あれが欲しい、これがしたい、という人並みの欲はあるにはある。しかし同時に、そうでなくても構いはしない。強いて願うことなど何もない。
夢も希望もなく生きられることこそ素晴らしいことなのではないか、と最近よく思う。
こう言うと、きっと後ろ向きな卑屈な発言だと取られるだろう。いかにも私は元来ネガティブな人間であることを自認しているが、この主張については極めて肯定的なものであることを言っておこう。
考えてもみろ。
夢とか希望とかいう蜃気楼に向かって走らせてきたものこそ資本主義ではなかったか。今や資本主義の掲げる明るい未来など誰が信奉しているだろうか。経済成長率を「気にしている」ことにしているシニシズムを感じないとは言えまい。
そんな社会の統一的な「良さ」なんか気にしない、「自分らしさ」を追求したい、とかいう志向は既に民衆の総意になっているのではないか。
にもかかわらず、人はまだ夢や希望に向かって生きることを「良し」とする。価値を未来へとスライドさせ、現状を無理やり意味づける姿勢は何も変わっていない。
なぜ今この刹那を素直に肯定しないのか。
今この刹那に幸せを感受している人は、夢や希望を語る必要がない。夢を語りたいなら、希望を持ちたいなら、そうすればよい。だが、それを必要としてしまうことは不幸だ。鼓腹撃壌する者が未来を語るだろうか。
異様な熱気で夢を語る者を見よ。その眼は明後日を見つめ、吐息には腐臭が漂う。今を生きてはいない者たちなのだ。
栄光に向かって走るその列車から降りろ。残念ながら、線路は続くよどこまでも。
車窓から景色を眺めるのではなく、大地を踏みしめる感触を味わえば良いのだ。
光は前方(未来)にはない。それは蜃気楼だ。
むろん頭上にもない。神はとっくに死んでいる。
無明の闇を照らす光源は己自身だ。
Comments (Close):2
- yasu 08-05-12 (月) 15:00
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少なくとも僕は夢というか、目標を持って、自分が次に何をするのかを自覚しながら、主体的に生きている人が好きだよ。でも、「好き」⇒「良い」なわけだけど、どうして僕はそれを好きになってしまったんだろうね。
- 玄鳳 08-05-12 (月) 23:49
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>yasu
そうだね、目標に向かって生きる人が魅力的に見えるのはもっともだね。やはり私だってそう感じる。
おそらく人間の生が持つ根源的な不安定さがそうさせるのではないかと思う。「生きている意味がない」という不安が、まやかしにしろ(敢えてまやかしと言おう)目標によって意味を与えられるから、そこに惹かれるのではないかと。