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私がどうか、ではない

能力のある人、努力のすえ成果を上げた人から、その要因を学ぼうとする。そして、その学習を自身に適用して、見返りを期待する。いかにして私は成功できるか、と。

だが、私はこう考える。成功の要因を考える以上、成功していない人の要因は当然その逆ということになる。
たとえば努力が重要な要素とするなら、なぜ努力できない人がいるのかを問わずにはいられない。現在の環境か、成長期の経験か、あるいは先天的なものか。この思考を手繰っていけば、究極的にはいかなる結果も本人に起因させることはできない。だいたい産み落とされてしまったこと自体が、私たち自身にとってあずかり知らぬことではなかったか。

「こうすればうまくいく」のかもしれない。しかし、なぜそうしない人がいるのだろうか。あるいは、そうしようとしても、そうできない人がいるのはなぜだろう。
こう考えると、「この」私がうまくいくかどうかは、もはやどうでもよい。そのようにしてうまくいかせようとしている時点で、人はうまくいかない(少なくともうまくいかない人がいうる)ことになってしまうのだ。

全員が幸せになるべきだ、などという博愛主義者なわけではない。
ただ、「こうすればうまくいく」という言葉の裏に、うまくいかない「こうしない」可能性が必然的に、我々のあずかり知らぬ形でついて回ることに気持悪さを覚えるのだ。言っておくが、この私が失敗する可能性があることに怯えているわけではない。人一般がうまくいくとは限らない、ことに合点がいかないのだ。
何かが間違っている。それはきっと、「うまくいっている」なんていう状況があると思っていることなんだと思う。

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