- 2008-10-19 (日) 19:29
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ちょっと挑発的なタイトルにしてみた。内容としては、「すべてはここから始まる」の続きになる、のかな?
大学を卒業後、新卒で就職した。日本における、とても一般的なコースを進んだわけだ。
そこで、会社員の生活が実にくだらないものであることを知った。そのことを実感するために、一般的な大学新卒の就職を選択したのだ、と今では考えている。半ば自己を肯定するために(笑)
何がくだらないのかと訊かれても、全部としか言いようがないだろうか。朝から夕方まで(当時の私の勤務で言えば、早朝から深夜まで)出社しなければいけないことがそもそもバカバカしい。
私の言っているくだらなさ、というのは普通の人が考えるであろうそれとは違う。もし私に一生困らないだけの経済的余裕があれば、やらないであろうことをやっていることが、くだらないと言っている。
こう言うと、現に働いてお金を稼がなければ生きてはいけないじゃないか、という反論があるだろう。生きるためには働かなければならない、と。
ごもっとも。じゃあ、なぜ生きるのか。死ねばいいじゃないか。生きていかなければいけない理由がどこにある?
働いて生きていくことには、喜びも感動もあるよ、という人がいるかもしれない。
どんな楽しいことがあるだろうか。仕事をして、人に感謝されて、報酬をもらえて、結婚して、子供をもうけて・・・うん、楽しいかもね、感動するかもね。分からないでもないよ。
で?
だから?
それがどうした?
この疑問は、その嬉しさや感動の度合いが実際に味わってみないと分からない、という問題ではない。
どんなに超絶的な感動がありえようとも、それによって人生が肯定されることには決してならない。ただし、超絶的な感動を味わっている瞬間に人生が肯定されることを否定するものではない。けれども、未来にわたってどんなに人生肯定の可能性を示されようとも、今この瞬間における人生肯定がなされていない限り、「死ねばいい」の選択肢を棄却することはできないのである。
だって、そうでしょう。未来は薔薇色だったとしても、現に今不快な労働を忌避して死を選んだら、不快さと共にばら色なはずの未来を味わえなかった残念さも抹消される(と思われる)からだ。今この瞬間の否定感が「死ねばいい」選択肢をその度ごとに、未来の薔薇より色鮮やかに屹立させる。
「お前は知らないだけだ」という批判が意味を持たないことを提示しておいて、話を進める。
さて、実際には未来の薔薇色が保証されているわけでは全くない(笑)やはり相応の努力は必要なのである、社会で認知されているような幸福を掴むためには。
そして、私は会社勤めという努力をすることを考えたとき、端的に死んだ方がマシだと思った。しかし、死ぬよりとりあえず辞めることの方が簡単なので退職した、というだけの話だ。会社勤めをした上で得られる(であろう)幸福感と労働(の不快感)を秤にかけた上での決定ではない、というのがポイントである。
タイトルに答えよう。
社会人のくだらなさは、「生きる」を本気で前提にしていることである。
余談。「よく考えろ」とか「根拠を示せ」とか言っている奴ほど、「なぜ生きるのか」の問いには目を瞑って考えようとしない。避けていることすら自覚してない。
従って、強く付言しておくが、私の就職した会社がまずかった、と言っているわけでは決してない(笑)おそらく、どこに就職したところで、私は同じ思考を辿り、同じ選択をしただろうと思う。
就職することがまずい、と言っているわけでもない。会社勤めで「うはぁ、楽しい♪」(←超絶的感動としての叫び)ということも原理的になくはないだろうし、「そうは言っても、やっぱり生きていくためにを考えてしまう」という社会人の悲しい性も痛いくらい良く分かるからだ。
私が話しているのは、具体的な会社の話ではない。日本という特定の社会の話をしているのでもない(ココ重要!)。社会なるものを形成する人間一般についての話をしているのである。そして、話はもっと普遍的な方向へ続く。
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Comments (Close):12
- ナカダ 08-10-22 (水) 23:09
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おひさしぶりです。以前、LHPでお会いしたナカダですが、
覚えていらっしゃるでしょうか。mixiからタイトルに惹かれて来てみました。
ちょうど同じようなことを思っていたもので。本文を読んでますます、似たようなことを考える人がいるもんだなという
感慨を覚えています。おそらく玄鵬さんもそうではないかと思いますが、
私は「常識」という「思考停止」が気持ち悪いと感じてしまう人間です。
友人からは「社会不的確」の烙印を押されていますが、
まあ、性(さが)なので仕方ありません。「なぜ生きるのか。死ねばいいじゃないか。生きていかなければいけない理由がどこにある?」
私もそう思います。
そして、そのように考えてしまう自分には、普通の人にはあるなにかが欠けているのか?とも。 - 玄鵬 08-10-23 (木) 0:24
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ほんとにお久しぶりですね。覚えておりますよ。
コメント、ありがとうございます。生きにくいですよね、こういうことを考えていると。しかし、一旦常識の虚無性に気付いてしまうと、見なかったことにはできないのですよね。
普通の人にとって常識の無根拠性を指摘されるのは、自身の立脚点を破壊されるに等しいわけですから、執拗に拒絶ないしは迫害しようとするのですよねー。私はそういう人を見ると闘わずにはいられなくなってしまう性分なのですw - SILVA 08-10-23 (木) 8:26
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お久しぶりです玄鵬さま。もう一年以上ご無沙汰ですね、お元気でしたでしょうか。面白そうな内容なので読ませていただきました。相変わらず他人とは違う視点からの切込みが鋭いw
当たり前に「生きる」ことを前提とした人々の考えについてですか・・・。そういえばよく「自分探し」とか「生きる意味」とかを問う新興宗教や怪しげな思考集団などもおりますね。「自分って何のために生きているんだろう」とか「いなくても平気なんじゃないか」という漠然とした疑問に明快な解を出せる人は案外少ないのかもしれません。
自分は「なぜ生きるか」という問いについてはこう答えます。「生きているから」
本来生きること自体に意味はないと思います。誰もそこに存在しなくてはならないという理由もおそらくは無いでしょう。もっとも生命の尊厳自体を否定するという意味ではありません。ただ、「生きる」ということは、ただの事実にすぎないのであって何か理由があって人がそこにいるわけではないんだ、と個人的には思っています。
ただ一方で、「生を放棄しても問題ない」というのは、私の考えとは少々違います。生を放棄することが大きな迷惑になることもありますし、生まれたからには何かの役に立つような(偉業とまでは言わないにしろ)ことをやってのけるべきだと思います。なぜなら「自分の命の所有権は自分だけのものではない」からです。
ひとたび社会の中に生まれた以上は自分ひとりの力で生きてきたと増長してはならず、絶えず他人に生かされていることを認識し、自己を戒めていくべきでしょう。そのなかで軽々しく生命を放棄するということは「無責任な」行為であるといえると思います。よって「死ねばよい」というのは、本当に死ぬ権利を(法的にではなく)得た人だけが言えることだと思います。生命というテーマにしたいして「自分の判断で終止符を打ってよい」権利を持った人・・・少なくともそのような人を私は見たことがありません。
ちょっと長くなりましたがこのあたりでwそれではまたどこかでお会いしましょう
- 玄鵬 08-10-23 (木) 16:32
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SLIVAさん、お久しぶりです。
お待ちしていましたよ、あなたのような意見を。なぜなら、このような世間的に見て真っ当な考えをこそ、粉砕するために私は叫んでいるのですからww>生を放棄することが大きな迷惑になる
生を放棄した時点で、私が認識しているこの世界は終わりを告げます。死んだ後にも世界が続くというのは、意識の作り出す錯覚です。「自分」という存在は、他の数ある人間の一人だと認識されるわけですが、しかし「自分」にとっての「自分」とは世界がそこから開闢する特異点なのであって、他人と同列に扱えるような存在ではありません。「社会があって、その中に大勢の人がいて、その一人が自分」というのは、意識によって分かりよく整理された解釈に過ぎません。
だいたい迷惑をかけてはいけない理由を論証できないでしょう。>自分の命の所有権は自分だけのものではない
全く論拠が不明です。SILVAさんの場合は、世の中のほとんどの人がそうであるように、社会すなわち世間という立場からものを見ているわけです。生きる意味はないといいながら、しっかりと社会に対する責任を果たすことに意味を見出しているではないですか。勿論それで構わないわけですが、私はその社会の存在意義に思考のメスを入れているのですよ。
言うなれば、天動説を支持する教会に異議を唱えているのが私です。なぜ、SILVAさんが地動説を弾圧した教会のように、私の意見にこれだけの長文でコメントしてくださったかと言えば、社会(世間)という神に日々仕えている以上、その根拠を揺らがせるような発言を看過できなかったのであろうと思います。重ねて言いますが、SILVAさんの意見は真っ当です。その信念で生きていかれるのが結構かと存じます。では、なぜ私がそのような真っ当な意見に否を唱え続けるかと言うと、そんな意見は単なる想定でしかないからです。そして、その想定によって人は押し潰されてしまうからです。
- ナカダ 08-10-24 (金) 22:50
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そうですね。わかります。
だから、「常識」を信奉する人は、理詰めで追い込んでいくと、怒り出すか、議論を放棄するんですよね。
「常識」って、「宗教」に似ていると思いませんか?
私が感じる常識の気持ち悪さって、宗教に感じる思考停止の気持ち悪さにとてもよく似ているのです。 - 玄鵬 08-10-25 (土) 1:46
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常識の外を考えられないのは、宗教を妄信しているのに等しいと思います。私みたいな人間に常識を適用するのは、宗教勧誘しているようなものです。
宗教と違って常識の信奉が通常問題にならないのは、社会人ほとんどが常識の信者だからですね。だから、無神論を気取っている社会人が嫌いなのですw
- yasu 08-11-01 (土) 2:10
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ねぇ。
なんかすごく今更なエントリーへのコメントなんだけど。ちょっと思いついた。
「くだらなさ」について書くことって難しくない?
それが”本当に”くだらないって言えることができないと思うんだよね。
「くだらない」対象って自分にとって自明であり、そのものへのコミットメントを避け、嫌いなことな気がするんだけど、どうだろう?だから、「良き生き方について考えること」はくだらないと思うし、「社会人のくだらなさを言及すること」がくだらないと思ってしまうんだよね。
- 玄鵬 08-11-01 (土) 13:19
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「くだらない」を言い換えると、「価値がない」と言うことはできないだろうか。主観と客観の問題はとりあえず措こう。
とすれば、対象を価値づける根拠を外すことができれば、「くだらなさ」を示すことはできる。そのように逆接でしか説明できないとは言えるけれど。ゆえにくだらなくありうることしか示せないかもしれない。で、なぜ私が「社会人のくだらなさ」を言及するかということだが、それはこの後のエントリーで叫んでいるけど、社会人を価値づける構造が人の有り得る可能性を抹殺するものであるから。世間の信奉している価値観念は、ものすごい感動(強度と読み替えても良い)として受け容れればよい人生を、苦しみという固定化された意味づけに浸してしまうものであり、その根拠付けに亀裂を入れることは素晴らしいことだと思うからだ。(デリダの云う「脱構築の正義」に引きつけたい)そして何より、優れて社会的な私は己の実存を脅かすそれに立ち向かわざるを得ないからだ。
yasuがこの私の所作を「くだらない」ことと感じるのは尤もで、なぜなら人生をそのまま感動として受け取っている度合いがかなり高いだろうから。私が認める君の天才性はここにあるw
私のこの言説はくだらなくていいんだよ。このくだらない言説が、社会人の動揺と反発を誘うならば、そのことによって社会人のくだらなさがまた露呈するわけだから。
- yasu 08-11-02 (日) 0:42
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そうだね。「価値がない」を示すとすえば、その価値を一枚一枚剥いでいく方向性は最も正当だし、その試みは面白い。
たぶんこれは、玄鵬くんにしかできないことだし、やり通すべきだとは思う。
なぜ玄鵬くんにしかできないって、そういう風に生きてしまっているから。これを僕が言うこともできるけど、僕が言っても意味がないから。僕が言ってはそれこそくだらないことになってしまうから。でも、玄鵬くんにとってはくだらないことではないし、それこそ叫びであるわけだからね。
もっと叫ぼう!あと、一応言っておくと僕も社会人であることはくだらないと思うし、学生であることもくだらないと思う。「学生です/社会人です」とか言うのは確かに便利だけど、でも、そういう君はそういう社会的属性なのか?って違うでしょうって思っちゃう。くだらないってかどうでもいい。
そして、僕にとってそれを一々言うこともくだらないんだね。 - 玄鵬 08-11-02 (日) 3:08
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そうそう、「社会人です」と言うのが気持ち悪くて仕方がない。「さて何者なんでしょうねぇ」とか言ってる。
もう編集しちゃったけど、ウェブ上は一応HNでよろ!
- ユウミ 09-02-09 (月) 17:35
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はじめまして!私はあなたみたいな人にあえてうれしいです!
私は社会人のくだらなさという事、生きる意味を中学の頃から考えて悩んでいて。誰にも話せずにつらい思いをしたので。
もっと早く出会いたかったです。
そうですよ!あなたの言うとおりです。
私と同じ事を考えを持ってくれている人なんてこの世にいないんじゃないかと、辛い人生でした。 - 玄鵬 09-02-10 (火) 3:31
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ユウミさん、コメントありがとうございます。
社会の枠外を認識しない人は、外を見る行為を抑制しようとしますからね。そして、そういう人が大多数です。
卑近な忙しさに目を奪われて、生きることそのものについての思考を停止しないでいきたいですね。かと言って、生きる意味を捏造するという安易な道に陥らないようにも気をつけるべきでしょう。生きることの意味不明さに正面から向かい続けたい、そう私は思います。理解者を欲しているわけではないのですが、私の思索にそのように共感していただけることは素直に嬉しく思います。考えを共有することがユウミさんが感じている辛さへの一助になるなら幸いですので、気が向いたら「お問い合わせ」ページからメッセージなど送ってくださいね。