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営利の壁

すごくしょうもない私的障壁の話。

人間の生には意味もクソもないという前提のもとで、社会活動をどう営みうるか。それは意味などという客観的基準への参照を必要としない、ただただ内発的動機でのみ成立しうる。ところが、内発性にのみ基づいて行動すると、社会的に不適合となる危険性が高い。というか、意識的に社会性への没入を試みなければ、大抵は陥穽にはまる。その陥落を回避するために、大多数の人々は外圧(社会性)を適当に受け止めつつ、内発性の発露を確保する。そうして終りなき日常をそれなりにうまく乗り切る。

要するにどういうことか。
ただ好きなことをやるしかないのだが、好きなことだけやっていると食っていけない。だから、日々困らない程度にはお金を稼ぐために働いて、その残余の時間を、好きなことに充てる。
まぁ、通常はそれでいいのだろう。「好きなことをやることが大切」という意識が一般化しただけでも、とりあえずは良しとすべきだ。

ところが、それで納得できないのが私であって、内発性に相反する限りにおいて一切の社会性に従うことが嫌なのだ。そう、原理主義者。
ゆえに営利という、定義上社会性への適合を要求される行為にうまくコミットできない。お金儲けが嫌いということなのだが、それは社会性への適合要求に対する強烈な拒絶感である。ところが、本当に自在に内発性を発露させられる人間であれば、社会性への適合要求にまともに向き合うことなしに時に適合し時に不適合するだろう。適合するポイントを見つけられれば、それこそ「好きなことを仕事にする」が実現するときであろうが、果たしてそれはありうるのか。
この問いへの答えは別に考えるとして、ところで、なぜ私は社会性への適合要求に向き合ってしまうのか。社会性をバカにして、内発性にこそ価値を置く(というこの表現自体が倒錯的だが)私が、なぜ社会性への適合要求を無視することなくマジメに捉えてしまうのか。それはやはり不適合への怖れゆえであり、即ち社会性の奉戴である。
嗚呼、何という倒錯!

この文章は考えながら書いてきたが、最近しきりと考えていた「ニルヴァーナと公共性」について一つの答えが出たような気がする。謂わば「釈尊が悟りを開いた後になぜ“態々”下山したか」というテーマだ。
これについては、そのうち書くかもしれない。これまでの文章の流れが精確に追えていれば、そんな命題を立てるのがまず倒錯的だということが分かる気もするが、読んでも分からないな、これは。なんたって、ひどい悪文!

でもまぁ、素直に垂れ流したいので、垂れ流しとく。
非営利的な内発的活動した後に想起されたことどもについて。

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