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      <title>玄鵬のハネ</title>
      <link>http://www.genhou.com/blog/</link>
      <description>脱構築、竹林、そして涅槃。</description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2008</copyright>
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         <title>なぜ二度寝に至福を見るか</title>
         <description>私は平日の午前から惰眠を貪る。このまどろみに、この上なく幸福感を感じるのは、背徳のゆえであろう。通常の社会人は、平日は朝早くから起きて労働に勤しむ。この社会の倫理を逸しているという悦びがあるのだ。
しかし、この悦びを感じているということは、いまだ枷を引き摺っていることに他ならない。「汝なすべし」の桎梏から解き放たれるとき、朝のまどろみもただただ退屈なものとなるだろう。

それで良い。床の余熱を断ち切るのではなく、その熱こそが床から飛び出すエネルギーとなるべきなのだ。その時に初めて、私は暁を覚えるはずだ。</description>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思索</category>
        
        
          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">二度寝</category>
        
         <pubDate>Tue, 11 Nov 2008 16:01:22 +0900</pubDate>
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         <title>俺のこの手が凍って固まる</title>
         <description>寒さが厳しくなった。出掛けるときの外気の感覚が冬めいてきた。この感覚は、嗅覚で表現するのが近い気がする。&quot;冬の匂い&quot;というと伝わるだろうか。これとは微妙に違った&quot;年末の匂い&quot;というのもある。何がどう違うのかはうまく説明できない。単に私の心持ちの違いかもしれない。

寒くなってくると大変なのが、手足の冷え。血液の巡りがあまり良くない私にはなかなか辛い。マウスを持つ手が凍りつく。寒くなって困ること、もう一つ。早起きがいよいよ不可能になる。だが、それだけ二度寝の幸福度が倍増するわけで、平日の昼まで睡眠にしてしまえる私はこの快楽を存分に享受できるのである。
やはり、他人（社会）からの干渉を極力避け、自由を最大限確保することに専心すべきだ。と、布団の中で思う。</description>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">睡眠</category>
        
         <pubDate>Sun, 09 Nov 2008 23:08:09 +0900</pubDate>
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         <title>若者の閉塞感とかいうやつ</title>
         <description>しきりに叫ばれる若年者の勤労意欲の低下という社会問題は、経済成長が鈍化し、加えて少子高齢化が進むことにより、年功序列や終身雇用の制度が破綻し、若年者が働き続けても収入の増加が見込めないことによる、と考えるのが主流な考え方のようだ。働いても報われにくい状態であるから、やる気がなくなるのであると。飛躍的な経済成長や少子高齢化の趨勢を大きく変えることが望めない中で、若年者が働き甲斐を持って働ける労働環境をいかに作りうるか、というのがまともな課題の設定であろうと思う。

しかし、私はこのような事態の捉え方に違和感を抱いている。彼らの底流にある閉塞感のようなものは、先に希望を見出しにくい現在の社会の趨勢に起因するものではないと思うのだ。もっと正確に言うなら、この社会状況に至って現出してきたものではあるが、それ自体は人間が本来的に抱えている病理であるように思えてならない。ゆえに、この状況を打破するために真っ当に社会の変革に挑んでも、抜本的な解決には至らない。

どういうことか。
日本は充分に豊かになった。労働問題を語る際に必出のニートやフリーターも、飽食を享受している。この満ち足りた（はずの）状態で、一体何を求めていくことがあろうか。それでもなおハングリー精神を持ち合わせているのは、かなり病的だ。満腹中枢が壊れているとしか思えない。
つまり、やる気がなくて当然である。もうどこを目指す必要もないのだから。あとは、刹那的に快楽を追求することになる。

と、ここまでなら、ハッピーな人々が享楽的に遊ぶおめでたい話で終わるのだが、現実にはそうではない。
生存に余裕が出てくると、人間は余計なことを考える生き物らしい。今日の労働が、明日の豊かさという意味を持っていた頃はいい。しかし今や、生きる手段に使うメモリが減った分、脳は生きている意味を捻出するためにもがき出す。だから適正年収が気になるし、勝ち負けを決めたがるし、格差を鮮明にする必要がある。隣近所で比較して、自分の意味を確かめようと必死になる。
「生きる無意味さ」というかつては裕福なエリートだけのものだった悩みに、かなりの人間が陥るようになったのである。

だからこの閉塞感は必然である。この社会のあり方に欠陥があるわけではない（ないわけでもない）。欠陥があるとすれば、人間という生命体に、であろう。
したがって、「希望の持てる社会に」という問題提起は誤っている。「希望なんかなくても楽しい&quot;世界&quot;に」である。これはもう政治とか経済とかの話ではなく、宗教とか思想とかの話である。</description>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">社会</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 05 Nov 2008 07:51:47 +0900</pubDate>
      </item>
      
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         <title>実務が嫌い</title>
         <description>ここ数年、法律と経理に触れるたびに、「近代社会うぜぇ」という呪いに近い嘆息が漏れる。私のめんどくささを最大にかきたててくれるものどもである。こんなものを生業にできる人たちには全く頭が下がるばかりだ。
まだ学問としてなら、やってやれないことはないと思うけど、実務としては無理だ。出来ればそんなことは無視して生きていきたいが、奴らの方では律儀にも放っておいてはくれないので、知らないと確実に損をすることになる。もうつくづく生きるのが嫌になる。実は死の欲動が最高潮に達する地点はこいつらが迫るときかもしれない。わりと本気。

人類は複雑化した社会を形成した。一個の人間が、そのからくりの全貌を把握することはとっくの昔に不可能になっている。全てを把握している人がいないのにも関わらず、常に問題を抱えながらも社会がそれなりに機能していることが、子どもの頃の私には不可解でならなかった。
いや、今でも不可解である。そしてそれが気持ち悪い。関わることの全てを把握しておかなければ気がすまないからだろう。要するに完璧主義なわけだ。もっと手元で全部把握できる範囲で生きていければいいのに、と思う。
もちろん、未知に触れることが嫌いなわけではない。知らないことを知ることは楽しい。私は是非、立ち止まって「よくわからないこと」を突き詰めて考えたい。「よくわからない」まま走りながら、その先を走るための用を為す程度に考え続けるようではありたくない。でも地面に座り込んで、思索に熱中していると死んでしまうものらしい。</description>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思索</category>
        
          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">社会</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 04 Nov 2008 21:25:47 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>昨晩、頭痛で目が覚めた</title>
         <description>単純に眼精疲労が原因だと思う。

頭痛にうなされながら、夢うつつにSQL文を打っていたような記憶が残っている。
脳は寝ているときでも、猛スピードで回転しているのだと実感した。心なしか頭が熱を持っている気がした。</description>
         <link>http://www.genhou.com/blog/2008/10/post-182.html</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">日記</category>
        
        
          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">SQL</category>
        
          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">夢</category>
        
         <pubDate>Thu, 30 Oct 2008 18:46:44 +0900</pubDate>
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         <title>俺のこの手が光ってうなる！</title>
         <description>このブログで展開している思弁は、生きる意味を見出すためのものではない。
意味とか価値とか、そんなものは単なる妄想に過ぎないことを敢えて吹聴するために書いている。

価値を実感しているものが単なる妄想であることを原理的には分かっていても、日常的にはその前提を崩さず、その土台がどこにも基づいていないことを忘れて生きている人は多い。
それはいい。機会さえあれば、無根拠性を想起してくれるから。

問題なのは、己の信じている価値なんか妄想に過ぎないことを分かっていない人である。彼らは他人をことごとく自分の世界の住人にしようとする。これが人間の抹殺でなくて何だ。抹殺してはいけないといっているのではなく、抹殺してはいけないと言っている者が抹殺している蒙昧ゆえの欺瞞に憤るのである。
だから、生きる意味について語りたいのではなく、彼らの奉戴している神像を破砕したい、ということなのだ。

お前を倒せと輝き叫ぶ！
のである。</description>
         <link>http://www.genhou.com/blog/2008/10/post-180.html</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">ネタ</category>
        
          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思索</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 24 Oct 2008 10:42:41 +0900</pubDate>
      </item>
      
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         <title>諸葛亮の理想</title>
         <description>久しぶりに三国志ネタ。

映画「レッドクリフ」が公開直前とあって、電車内の広告が目を惹く。それほど楽しみにしているわけではないが、三国志ファンの端くれではあるので観にいく予定ではある。

さて、その広告の謳い文句が気になった。
どうも赤壁で大活躍する孔明先生は穏やかな世の中を目指しておいでらしい・・・
エンターテイメントなので面白く脚色してくれればいいと思っているし、だいたい赤壁の戦いを題材にしている時点で史実との整合性なんて望めないのであるが、なんだか違和感のある表現だと感じた。なんだか現代的な願望に過ぎる。（つーか、マジで穏やかな未来を望んでるなら、弱小の劉備につかないだろう・・・）
曹操の孫呉への侵攻も、二喬の獲得が動機のうちでもかなりのウエイトを占めるようだ・・・これも観客の日常の感覚に引きつけまくっているように思われる。

漢室再興の意志とか、劉備との義侠的な関係なんぞを主人公の心情の中心に据えても、現代人が感情移入できないのは分かるが・・・それでも、物語の再解釈に想像力の貧弱さを感じないわけにはいかない。

だいたい「『三国志』完全映画化！」って、赤壁がテーマでどのへんがどう完全なのか首を傾げたくなる。
ま、観てもいないのに文句を垂れるのもなんだから、とりあえず期待しないで観にいくことにしようっと。</description>
         <link>http://www.genhou.com/blog/2008/10/post-179.html</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">赤壁</category>
        
         <pubDate>Thu, 23 Oct 2008 00:25:04 +0900</pubDate>
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      <item>
         <title>なぜ社会人はくだらないか</title>
         <description><![CDATA[ちょっと挑発的なタイトルにしてみた。内容としては、「<a href="http://www.genhou.com/blog/2008/10/post-177.html">すべてはここから始まる</a>」の続きになる、のかな？

大学を卒業後、新卒で就職した。日本における、とても一般的なコースを進んだわけだ。
そこで、会社員の生活が実にくだらないものであることを知った。そのことを実感するために、一般的な大学新卒の就職を選択したのだ、と今では考えている。半ば自己を肯定するために（笑）

何がくだらないのかと訊かれても、全部としか言いようがないだろうか。朝から夕方まで（当時の私の勤務で言えば、早朝から深夜まで）出社しなければいけないことがそもそもバカバカしい。
私の言っているくだらなさ、というのは普通の人が考えるであろうそれとは違う。もし私に一生困らないだけの経済的余裕があれば、やらないであろうことをやっていることが、くだらないと言っている。

こう言うと、現に働いてお金を稼がなければ生きてはいけないじゃないか、という反論があるだろう。生きるためには働かなければならない、と。
ごもっとも。じゃあ、なぜ生きるのか。<strong>死ねばいい</strong>じゃないか。生きていかなければいけない理由がどこにある？

働いて生きていくことには、喜びも感動もあるよ、という人がいるかもしれない。
どんな楽しいことがあるだろうか。仕事をして、人に感謝されて、報酬をもらえて、結婚して、子供をもうけて・・・うん、楽しいかもね、感動するかもね。分からないでもないよ。
で？
だから？
それがどうした？

この疑問は、その嬉しさや感動の度合いが実際に味わってみないと分からない、という問題ではない。
どんなに超絶的な感動がありえようとも、それによって人生が肯定されることには決してならない。ただし、超絶的な感動を味わっている瞬間に人生が肯定されることを否定するものではない。けれども、未来にわたってどんなに人生肯定の可能性を示されようとも、今この瞬間における人生肯定がなされていない限り、「死ねばいい」の選択肢を棄却することはできないのである。
だって、そうでしょう。未来は薔薇色だったとしても、現に今不快な労働を忌避して死を選んだら、不快さと共にばら色なはずの未来を味わえなかった残念さも抹消される（と思われる）からだ。今この瞬間の否定感が「死ねばいい」選択肢をその度ごとに、未来の薔薇より色鮮やかに屹立させる。

「お前は知らないだけだ」という批判が意味を持たないことを提示しておいて、話を進める。
さて、実際には未来の薔薇色が保証されているわけでは全くない（笑）やはり相応の努力は必要なのである、社会で認知されているような幸福を掴むためには。
そして、私は会社勤めという努力をすることを考えたとき、端的に<strong>死んだ方がマシだ</strong>と思った。しかし、死ぬよりとりあえず辞めることの方が簡単なので退職した、というだけの話だ。会社勤めをした上で得られる（であろう）幸福感と労働（の不快感）を秤にかけた上での決定ではない、というのがポイントである。

タイトルに答えよう。
社会人のくだらなさは、「生きる」を本気で前提にしていることである。
余談。「よく考えろ」とか「根拠を示せ」とか言っている奴ほど、「なぜ生きるのか」の問いには目を瞑って考えようとしない。避けていることすら自覚してない。

従って、強く付言しておくが、私の就職した会社がまずかった、と言っているわけでは決してない（笑）おそらく、どこに就職したところで、私は同じ思考を辿り、同じ選択をしただろうと思う。
就職することがまずい、と言っているわけでもない。会社勤めで「うはぁ、楽しい♪」（←超絶的感動としての叫び）ということも原理的になくはないだろうし、「そうは言っても、やっぱり生きていくためにを考えてしまう」という社会人の悲しい性も痛いくらい良く分かるからだ。

私が話しているのは、具体的な会社の話ではない。日本という特定の社会の話をしているのでもない（ココ重要！）。社会なるものを形成する人間一般についての話をしているのである。そして、話はもっと普遍的な方向へ続く。]]></description>
         <link>http://www.genhou.com/blog/2008/10/post-176.html</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思索</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 19 Oct 2008 19:29:19 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>パワー10の人がパワー100の人に勝つ方法</title>
         <description>パワーを数直線上の位置で測ることをイメージしてもらえると分かりやすい。

パワー10のAさんが、パワー100のBさんに勝つためにはどうすれば良いか。常識的に考えて、方法は2通りある。

一つ目。
Aさんが鍛錬することにより、自身のパワーを100以上に上げる。

二つ目。
Bさんに損害を与えることにより、彼のパワーを10以下に下げる。


いかなる手段も、この二つの組み合わせでしかない。


ところが、AさんがBさんに勝つ非常識な第三の方法があった。
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         <link>http://www.genhou.com/blog/2008/10/generation-of-moral.html</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思索</category>
        
        
          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">道徳</category>
        
         <pubDate>Wed, 15 Oct 2008 21:42:14 +0900</pubDate>
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      <item>
         <title>で、っていう</title>
         <description>ヨッシーの話ではない。

話の相槌に、「で」という単語を単独で使うことがよくある。
話の続きを促しているわけだが、改めて考えてみるとなかなか面白い言葉だ。

文法的には格助詞「で」が、接続助詞的に使われたものだと思う（たぶん）のだが、知っての通り助詞は付属語である。学校では付属語は、それ自体では意味を成さない単語であって、必ず自立語とセットで使用されるものだと教わったはずだ。
にもかかわらず、実際の会話上では単独で使用されてきちんと意味を成しているじゃないか！
と思った。

で？</description>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">ネタ</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 13 Oct 2008 12:30:47 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>電報はゾンビ</title>
         <description>友人が結婚すると聞いた。結婚式の二次会に呼ばれたが、残念ながら不参加。遠隔地なのもある。

祝電くらい送ってやろうと思ったが、電報である必要がどこにある？
本来的な電報の役割を考えると、即時性だろう。しかし、これはもうメールの方が遥かに勝っている。
メールになくて電報にあるものといえば、形（紙）として残る点だろうけど、だったらメールをプリントアウトすればいい。そもそも電報自体が、印刷物なんだから。
印刷用紙に書かれた文面だけではなくて、飾りの枠が欲しいということだろうか。

メールに比して異様に高い電報の値段は、ほとんどこの飾り枠による。
しかし、あの飾り枠にどれほどの意味があるのか。テンプレートから選ぶだけだから、結局誰も彼も同じものになる。無駄と言わずして何と言う。
しかもその枠にはランク付けがあって、豪華になるほど価格は上がる。それによって何を示したいのか、よく分からない。実にいやらしい慣習だと思う。

メールを操作できない、もしくはメールを送信できる環境にない人のための電話以外の通信手段として、残しておいても良いとは思う。
しかし、それは細々と残せば良いのであって、無意味な装飾を付加して無理やり生かしてどうする。

よってメールにて祝辞を送ることにする。


まあ、そんなことを言う人はお金儲けができないのですよ。
それに、慶事からゾンビの話になってしまうのは、どうかと思ったｗ</description>
         <link>http://www.genhou.com/blog/2008/10/post-133.html</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">日記</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 07 Oct 2008 20:15:21 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>すべてはここから始まる</title>
         <description><![CDATA[<strong>めんどくさい</strong>


また、始まったよ・・・
これは生まれながらの持病なので仕方がない。もう一生付き合っていくしかないだろう、と覚悟している。だいたい今まで大過なく生きてこられたのが不思議なくらいだ。弱肉強食の自然界ならとっくに死んでる。それでもこの人間社会では、幸か不幸か生きながらえてきた。
ということは、人間にはこういう“フザけた”生き方がまず許容されているのである。この場合の「許容」の主語は、社会とか人間とか云うんじゃない・・・適当な言葉が見当たらない。
たとえば、私の腕や脚を動かしているのは、むろん私だが、私が腕や脚を動かすことを可能にしているのは私ではない。いうなれば、それは神と云うしかないような力によって可能とされている。そのような力によって、生きる気力を持たざる者が生きさせられるのが人間である。ならば、積極的に生の充実を求めずして（かといって死を願うわけでもなく）生きていく人間を認められはしまいか。20台半ばにして社会を半分降りなんとしている私が、もし社会的な願望を持つとするならば、それはこの承認の獲得にある。

非社会であることを、社会に認めさせようとするこの矛盾。
社会性を身に纏いながら、超社会性の裸を想ってしまった私の悲劇。せめて着こなすセンスがあれば、もう少し救いもあったろうに。
この分裂した私が向かう先はあるか。]]></description>
         <link>http://www.genhou.com/blog/2008/10/post-177.html</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思索</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 06 Oct 2008 23:10:35 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>改名しました</title>
         <description>タイトルのごとく。”つり”に非ず。

改名したついでに、ハンドルネームも改めることにした。
「玄鳳」から「玄鵬」へ。読みは変わらず「げんほう」
『荘子』逍遙遊編の「鵬」を意識している。玄鳳が「鳳雛」を意識して付けた名であることと比べると、私の志向（というか嗜好）の変わりようが分かるというもの。
しかし、玄鵬って力士の四股名っぽいよね。まぁ玄鳳だって、あれはあれで戒名っぽかったけど。

なお、本名の方も一字のみ改めただけで、読みは変わらず。もっともいきなり戸籍から変えられるれるわけではないので、当分は通称名ということになるけれど。

さて、「なぜ」という問いがくることは必然なわけで・・・簡単に説明しておく。
一年半ほど前から運命学（所謂「占い」と呼ばれる類のもの）を学んでいて、その一分野に名前によって吉凶禍福を判断する姓名学がある。名前の画数によって運勢を判断するという、どこかで一度は耳にしたことはあるアレだ。
運命学についての私なりの見解は、追々書いていくことになると思う。

日本人には、宗教と占いに即座に拒絶反応を示す人が多いので、リアル知人ばかりが見ているブログでこれをカミングアウトするのは少々リスキーなのだが、私の思索を展開する上では外せない要素なのでここで披瀝しておく。

以上、重要な近況報告を兼ねての久々のブログ更新となりました。</description>
         <link>http://www.genhou.com/blog/2008/10/rename.html</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">姓名学</category>
        
          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">改名</category>
        
          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">荘子</category>
        
          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">運命学</category>
        
         <pubDate>Sat, 04 Oct 2008 18:06:30 +0900</pubDate>
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         <title>振り返れば未来</title>
         <description>空間的には目のついている方向を「前」と呼び、その反対方向である背中の側を「後」と呼ぶ。
空間的な前後関係は単純でわかりやすいが、時間的な前後というのはこれよりわかりづらい。「～より前」と言った場合、時間的には基準より古い時点を指し、「～より後」はより新しい時点を指す。

解せぬことに、時間の進む方向を「前」とは呼ばずに「後」と呼ぶのだ。
ちなみに「先」という言葉も、「前」と同様に空間的には（変な表現だが）向かっている方向を指し、時間的にはより古い時点をいう。

なんてことだ、われわれはいつだって過去を向いているのだ。未来に向かって歩んでいると思っていたのに、ムーンウォークを見せられたような不思議さだ。
だが、よく考えると尤もなことで、目は前にしかついていない（というか、目のついている方が前）のだから、過去のことしか見えないのが至極当たり前に思える。すると、「過去を振り返る」という表現は適切ではない。振り返るのは過去ではない、われわれのいる今この瞬間の後にある未来だ。

そう、前向きに将来を展望するなんてことは、不可能。未来とは、振り返るもの。
では、未来を振り返るとはどういうことなのか？未来を振り返ることなんてことができるのか？</description>
         <link>http://www.genhou.com/blog/2008/08/post-175.html</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思索</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 26 Aug 2008 16:09:08 +0900</pubDate>
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         <title>GARNET CROWライブ</title>
         <description>昨日、GARNET CROW Livescope2008に行った。場所は水道橋のJCBホール。

GARNET CROWのファンには違いないが、さすがに以前ほどの熱もなく、会場に行くまで難儀に感じてしまっていた。いや、正確には開演するまで。
その証拠に、ライブ数日前に発売された新曲を買ってなかったし、ツアーグッズもパンフレットを買うだけに留めておいた。
それでも曲が始まると、やはり気分は高調するもので、楽しい時間を過ごせた。やっぱりGARNET CROW好きだな、とライブに行く度に思っていることを、今回も改めて思った。

そして帰宅後、パンフレットは封を開けることなく本棚に収納されたのであった。</description>
         <link>http://www.genhou.com/blog/2008/08/garnet-crow.html</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">日記</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 17 Aug 2008 08:59:07 +0900</pubDate>
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