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世の中に溢れている問題の原因はだいたい自尊心である
- 2011-05-17 (火)
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私たちは日々様々な問題に晒されているように思うけれども、結局のところそれらはほとんど全て自尊心の問題だと言ってしまって構わない。このごろ、つとにそう思うのである。
生きるか死ぬかの生存がほぼ担保されている日本において、あとは「自分は価値があるのか」という命題が最大の関心事である。というか、皆さん日々そればかり考えている、ように私には思える。
仕事の悩みも、人間関係の悩みも、経済的な悩みも、恋愛の悩みも須らく自尊心の問題である。
「自分は価値ある仕事をこなしている価値ある人間か」
「自分は理解・承認・尊敬を受ける価値ある人間か」
「自分は『価値』を保有している価値ある人間か」
「自分は愛され求められる価値ある人間か」
要するにこういうことだ。
自尊心が保てないというのはこの上なく不幸な状態だが、これに足を取られるのは実にくだらないと思う。
だいたい価値なんかありはしないのである。端から無いものを血眼になって探していることほど馬鹿げていることはない。
全てどうでもよいことなのであるから、心の欲するところに従えばよい。それは戯れである。
とはいえ、自尊心が悲痛の叫び声を上げる苦しさは、とてもとてもとてもよく分かる。つもりである。
でも、その怖れが虚妄であることを理解して、共に戯れましょう。
そして、その怖れが虚妄であることすら分からず喚いている人とは距離を置きたいと思う。
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2010年の終わりに
- 2010-12-29 (水)
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帰省中の新幹線で書いている。
一年を振り返るに際して、今年は全くブログを更新しなかったことについて触れておきたい。なぜ書かなかったのか、いろいろな理由が思いつくけれど、言葉にするとそのどれも違うような気がする。ブログ更新に使う時間が惜しかったのもあるし、単純に面倒になってしまったこともある。twitterの方が手軽につぶやけて、リアクションもあるので、ブログに掲載するっためにまとまった文章を考えるのが億劫になってしまったのも大きな理由の一つだ。そのように列挙できる要因はいくつもあるが、それらの要因がブログ更新をストップさせるに至ったもっと根本的な理由について考えたい。それは私がブログを書くということに対するスタンスのようなものだ。
実は、改めてこのことを考えてみると、私の心境の変化を顧みることになるし、それは取りも直さず、私のこの一年の総括にもなるだろうと思う。
なぜ、私がブログを書いていたのか。私の話を聞いてもらいたかったからに他ならない。そして、私を構ってもらい、認めてもらい、褒めてもらいたかったからに他ならない。その注目を私は涼しい顔をして受け流し、心底でほくそ笑みたいのである。
うすうす分かってはいるが、この欲望の直視は吐き気を催させる。それでもこの薄汚い欲望を肯定するために、万策を練って生きてきたわけである。
一言で云えば、「私とは誰であるのか」という自我の狂った叫びに翻弄されていた、ということだろう。もちろん今だってこの叫びによく動揺させられている。
しかし、それは幻想にすぎないのであり、生きるということは幻想との戯れであるとも云える。そのようにいくらか冷静に、高速で無限ループする不毛な思考を眺めることができ始めた。と同時に、くだらない自分語りに対して嫌悪を自覚するようになった。
これが私のこの一年で得た大きな成果だ。ブログを書かなくなったのも、こういうわけだ。
抽象的な話でまことに恐縮だ。抽象的な話は読み物としてはつまらないものになりがちだ。おまけに駄文過ぎて、とても面白い文章とは思えないが、これ以上推敲を重ねようとすることはまた私の中の狂気に手を貸すことになるのでやめておく。
ところで、自分語りへの関心が薄くなったとなれば、このブログをどうするかが思案のしどころだ。徒然に日記的に書くのではなく、何かテーマを決めて、読む価値のあるものを書いていくのが妥当だろうと思うが、そんな書きたいことなんてないんだな。
また、思いついたときに、思いついたことを書こう。“私”の叫びに足を取られないように。
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現世利益と執着の解放
- 2010-02-12 (金)
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金銭を稼ぎたい、名声を博したい、地位を築きたいなどの執着を持っている限り、絶対安寧なる心境には到達できないとしよう。ひとえに、いかにして執着を絶ち、世界の混沌なるままでの肯定に至れるかが、人生の目的だと言えるだろう。もっとも、そのような境地に行き着いた後には、手段としての人生は確たる輪郭を既に失っているはずで、敢えて語るに足らぬものとなっているのではあろうが。
さて、このようなものとして「生きること」を捕捉する私にとって、冒頭のような現世利益を追求するという行為にコミットすることは難しい。
ならば、財産や地位や名誉なる俗物に心を動かされないかといえば、答えは否であるのがかなしいところ。多少なりとも、それらにまつわる羨望や嫉妬を生じないわけにはいかず、執着に絡め取られる。といって、執着を起爆剤に現世利益の追求に邁進できるほど単純ではない。都度襲いくる生の無意味さに一時的には圧倒される現世利益への欲望は、怠惰と無気力に道を譲る。
かくして、存在の耐えられない軽さに絶望する人間は、執着に塗れた俗人に唾を吐きながら、さりとて死に至ることもできず、己が執着に煩悶する。
さて、完きとは言わぬまでも、いくらか執着の罠を逃れているのではないかと思わしめる者に、元々は激烈な執着者が少なくないことを思う。金を稼ぎたいとか、有名になりたいとかいう欲望の達成に一意専心し、願望を達成していく中で執着が剥がれ落ちたのではないか。執着を落としてあるがままの世界を受け入れるようになるために、彼らにとって現世利益の徹底追求は不可欠なプロセスだったのではないかと、かなりの確信を持って思えてくるのである。そうであるとすれば、私はそのような俗人を嗤うことはできない。
執着を絶つために禁欲をするつもりがない私は、このままでは執着に捕まり続けてしまうであろう。であれば、いっそのこと執着に塗れて現世利益を追求してみればいい。だが、この生き方をできるかと自問したとき、私には甚だ心許なく思われる。この自信のなさは、己の能力不足を憂うことから来ているというよりは、そもそも何かに懸命になるということに無理を感じるがゆえのものだ。ちょっと私にはできそうもないし、そうではない執着からの解放の仕方があるのではないかと思われて仕方がない。巷に溢れるポジティブ言説に対して私が噛み付いているのは、どうもこのあたりの私の葛藤によるのだと思う。
そもそも、現世利益を追求することによって、むしろ執着が剥がれることをどう理解すべきか。思うに、それは己の執着を飽くことなく凝視し続けたが故なのではないか。この点で出家者のやっていることも同じで、彼らは禁欲することで己に内在する執着を具に観察しているのではないか。正面から向き合うことで、執着の実態を暴き、その空虚なることを看破しえると言えるのではないか。
内発的欲求に身を任せること―「夢を持とう」「好きなことで生きる」。あるがままに世界を承認すること―「起きていることはすべて正しい」「きっとよくなる」。
これらは、執着を剥がした結果として至れる境地であって、執着を剥がすための助言としてはあまり用をなさないのではないか。執着に捕まっている間は内発的欲求を見逃してしまうし、世界は曇ってよく見えない。
現世利益の追求や禁欲の勧めは、ひとつの処方箋になりうるかもしれない。したがって、「(内発的)夢を持とう」いう言説を誤読して、客観的評価に基づく状態を夢と規定して執着に邁進することも、プロセスとしては間違っているとは断じられない。
しかし、どちらも取れないような不純な者―禁欲するほど一途に真面目でもなく、現世利益を追求できない程度にはメタになってしまった者―はいかにして、執着に向き合い解消していくことができるのだろうか。そのような方法がありうるのだろうか。私はそれが知りたい。
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此処は仮寓である
- 2010-01-22 (金)
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年が改まって最初の記事。
グレゴリオ暦の正月に何の意味がある
などと嘯いてしまう相変わらずな私であるが、一通りのご挨拶を申し上げましょう。
明けましておめでとうございました。
本年もよろしくお願い申し上げます。
さて、来月下旬に居を移す予定がある。
都市圏を移動わけではないので、以後も変わらずお付き合いを。
現在の自宅に引っ越してきたのが2007年3月であるから、およそ3年ほど住んだことになる。
狭い部屋ではあったが、大過なく過ごすことは出来た。幸い大家さんがたいへん親切な方で、いろいろお世話になったし、またご迷惑もおかけした。有難いことだと感じている。
そんなこともあってか、思ったより長く住んだという印象だろうか・・・というのも、そもそもどれほどいるかなど考えていなかったのだが、やはりここは仮寓であるという意識はどこかに強くあったような気がするからだ。
思えば、「ここは仮寓である」という想いは、大学入学とともに上京した頃より常にあるように思う。
今の部屋に限らず、私の部屋に来た友人の感想で多いのは、「生活感がない」というものだ。散らかってはおらず、最低限の整理はしているものの、飾り気が無く殺風景。利便性や見た目の演出も含め、生活する空間として工夫を凝らすということがない。部屋の片隅には、引越しの際に使ったダンボールないしは梱包材が、そのうち使うはずだという憶測のもとに保管されたままになっている。
このような部屋のあり方こそは、「ここは仮寓である」という意識の表れなのではないか。ふとそう思った。
そして、この意識は私の実存そのものを貫いているようにも思えるのだ。
今生は仮寓である、と。
私の感じている、落ち着かなさ、居たたまれなさ、さらに言うなれば生きにくさは、これが為なのではないだろうか。そう思ったのである。
私は此処にずっといるわけではない。ひと時の間、滞在しているに過ぎない。いつでも出立できるようでありたい。早く此処での生を終わらせたい。ゆえに、社会への注力が煩わしく、諸事面倒に感じるのであろう。
では、此処が仮寓だとして、私はいったいどこに行こうというのだろうか。
この思考は、究極的な到達点を、形而上学的理想を措定してしまっているものではないだろうか。これこそは、私が忌避し唾棄してきた目的志向の罠に他ならないのではないか。
此処でいいじゃない?
此処は仮寓である。そして次に住む処も、やはり仮寓であろう。
それでも、私には“いまここ”しかない。いや、いまここでもう既に十分に満たされているはずではないのか。どんなに仮寓の形相が変わろうとも、私がいまいるところはここでしかありえない。どこかに行かなければならないわけでもない。
では、この仮寓を楽しもうか。ようやくそのようにも思えるようになって来たところだ。
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趣味で誤魔化すな
- 2009-10-08 (木)
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趣味は何か、と訊かれると二重の意味で困る。
ひとつは、他人に語って聞かせられるほどのレベルに達しているほどのコミットしている何かが私には無いということ。そしてもうひとつは、一般に「趣味」なる言葉の指すものが私には存在しないらしいということだ。
前者は、他人に趣味という自身の属性として表明するならば、彼・彼女を圧倒するほどの知識・技能を有しているか、客観的にみて(多くは時間的に)多大なコミットメントがあることを示せなければならないという葛藤がある。
私には正直そんなものはない。多少は本も読んでおり一般人にならばいくらでも教説できるが、専門性を持った人の前では絶望的に己の無力さを実感するばかりで、自身の属性として堂々と表明できるものではない。
(ちなみに、普通な人の前で適当にお茶を濁したい場合は「三国志」とか「ガンダム」とか答えることがある。当然オタクを前にしたときには言わない。)
そもそもそんなに多大なコミットを要するのであれば、それは既に趣味ではないのではないか、という疑問が出てくる。この問いこそ、私が趣味を表明できない第二の理由に関わってくる。
すなわち、それほどコミットしていないものに、いかほどの嗜好が認められるのか、ということだ。他人に自信を持って表明できるほどの嗜好であれば、圧倒的な造詣の深さがあってしかるべきだろう。少しつつかれたくらいで底が知れる程度の嗜好を、どうして自己の属性として語れようか。
これは、単に一般人と私の間の「趣味」という単語の捉え方の違いではない。
一般的には、趣味と対になる言葉としては「仕事」があげられるだろう。これは食べていくための、生活の必要としての仕事であり、ここでは「労働」という言葉を使いたい。一般にいう趣味とは、この労働ありきのものであり、労働再生産のためのそれであって、日常(労働)の疲れを癒しガス抜きをするためのそれに他ならない。
ここにおいて、ご存知のように(?)生存を自明としない私はこう言いたい。趣味なんぞで日常をやり過ごすんじゃない!常に実存を賭けろ!と。
当然のごとくに自己の属性として「趣味」なる項目があることは、労働が人生の中心であることが自明であることを如実に示している。
一般人はこうも言う。「趣味(好きなこと)を仕事にするのは難しい」(仕事にしなければならないのはなぜ?)「趣味(好き)でするのとと仕事としてすることは違う」(だからどうして仕事をしなければならないのか!)・・・
ここには、労働の枷を引き摺る弱者のルサンチマンが充満している。
私は「好き(夢)を諦めるな」などという自己啓発的なことを言いたいのではない。
労働を、生活の必要を自明として生きるな、と言いたいのである。「趣味」などという括りを破壊せよ!「趣味」に安住している限り、いつか襲ってくる(かもしれない)実存の空虚さに耐える強度は、無明の闇を照らす輝きは獲得できない。
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反応と責任
再三明言しているが、「プロ意識」とか「プロフェッショナルとして」とかいう類の言葉が、私は好きではない。
プロとして(対価・報酬を得て)仕事をする以上、それは期待に見合った乃至はそれ以上の成果を挙げることを信条とする、というような意味合いを指す。それ自体は、(残念ながら?)社会のルールであるわけで、遵守しないと生き辛いという程度でのものであって特段そこに異論はない。しかし、プロ意識がとても尊いもののように扱われる場に遭遇する度に、そのような社会のルールが設定されているという世界の理不尽に屈して生きる者たちの無自覚なルサンチマンを感じずにはいられない。
ゆえに私は「プロ意識」という言葉が好きではない。
「なぜそんなに真剣にできるのか」という質問には、「プロですから」と答えるのではなくて、「そこに山があるから」と答えてほしいのだ。
好きだからやっている者の前では、プロだから(好きかどうかはともかく)やっている者は霞む。結果が具体的にどう出るかなど問題ではない。好きでやってるのであれば、泣こうが笑おうがもうそれだけで輝いているのだから。結果を見て後悔して憾みに思うようであれば、それは好きでやっているとは言わない。世間的にどんなに最悪だとののしられようと、「わが生涯に一片の悔いなし!」と叫べる者のことを言っている。
世界は理不尽に満ちている。
まったくわけのわからない結果が襲い掛かる。その中でわれわれはどれだけ輝けるだろうか。それは、この世界に素直に反応できるかにかかっているように思う。
まず、己の内発性に身を任せること。そして、その結果をそのまま受け入れること、きちんと反応を返すことだ。結果などどうでもいいという前述の主張に矛盾するように聞こえるかもしれないが、そうではない。どんな結果であろうと、それはそれで別によく、悲しければ泣けばいいし、楽しければ笑えばいいし、悔しければ歯噛みすればいい。ずっとそうしているわけもなく、そのうち飽きてくればまた次の内発性に身を任せ、そこにある山に向かっていけばいい。
目の前の事態を受け入れられず、特定の結果に固執すると、恨み妬みそして苦しみが発生する。自分の妄念に凝り固まって、世界に反応できていない。
世界は理不尽に満ちている。
ルールは社会のものであって、われわれは世界的には自由だ。自由には責任が伴うものだが、それこそが世界に反応するということだ。
内発性を発露させ好きに生きればいい。そのためには、理不尽にもたらされるその結果を受け止める責任を負うことになる。これはそれぞれ独立したものではなく、同時にしか成立しない。世界にきちんと反応を返せる、すなわち世界がどうとでもありうるということを直感的に知っている者そしてそれを受け入れる用意のある者こそが、内発性を開放できる。
責任responsibilityは、反応responseできるということなのだ。
以下は、世界への責任について描かれている素晴らしい作品。(主人公は世界に反応できていない)
チェンジリング [DVD]
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