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第4の座標系

反応と責任

再三明言しているが、「プロ意識」とか「プロフェッショナルとして」とかいう類の言葉が、私は好きではない。
プロとして(対価・報酬を得て)仕事をする以上、それは期待に見合った乃至はそれ以上の成果を挙げることを信条とする、というような意味合いを指す。それ自体は、(残念ながら?)社会のルールであるわけで、遵守しないと生き辛いという程度でのものであって特段そこに異論はない。しかし、プロ意識がとても尊いもののように扱われる場に遭遇する度に、そのような社会のルールが設定されているという世界の理不尽に屈して生きる者たちの無自覚なルサンチマンを感じずにはいられない。
ゆえに私は「プロ意識」という言葉が好きではない。

「なぜそんなに真剣にできるのか」という質問には、「プロですから」と答えるのではなくて、「そこに山があるから」と答えてほしいのだ。
好きだからやっている者の前では、プロだから(好きかどうかはともかく)やっている者は霞む。結果が具体的にどう出るかなど問題ではない。好きでやってるのであれば、泣こうが笑おうがもうそれだけで輝いているのだから。結果を見て後悔して憾みに思うようであれば、それは好きでやっているとは言わない。世間的にどんなに最悪だとののしられようと、「わが生涯に一片の悔いなし!」と叫べる者のことを言っている。

世界は理不尽に満ちている。
まったくわけのわからない結果が襲い掛かる。その中でわれわれはどれだけ輝けるだろうか。それは、この世界に素直に反応できるかにかかっているように思う。
まず、己の内発性に身を任せること。そして、その結果をそのまま受け入れること、きちんと反応を返すことだ。結果などどうでもいいという前述の主張に矛盾するように聞こえるかもしれないが、そうではない。どんな結果であろうと、それはそれで別によく、悲しければ泣けばいいし、楽しければ笑えばいいし、悔しければ歯噛みすればいい。ずっとそうしているわけもなく、そのうち飽きてくればまた次の内発性に身を任せ、そこにある山に向かっていけばいい。
目の前の事態を受け入れられず、特定の結果に固執すると、恨み妬みそして苦しみが発生する。自分の妄念に凝り固まって、世界に反応できていない。

世界は理不尽に満ちている。
ルールは社会のものであって、われわれは世界的には自由だ。自由には責任が伴うものだが、それこそが世界に反応するということだ。
内発性を発露させ好きに生きればいい。そのためには、理不尽にもたらされるその結果を受け止める責任を負うことになる。これはそれぞれ独立したものではなく、同時にしか成立しない。世界にきちんと反応を返せる、すなわち世界がどうとでもありうるということを直感的に知っている者そしてそれを受け入れる用意のある者こそが、内発性を開放できる。
責任responsibilityは、反応responseできるということなのだ。

以下は、世界への責任について描かれている素晴らしい作品。(主人公は世界に反応できていない)
チェンジリング [DVD]

己の過誤は認めぬということか

今朝、駅前で自民党衆議院議員候補(現職)与謝野馨氏のうちわ形ビラをもらった。
表には与謝野氏の顔写真、裏にはご挨拶文が書いてある。

そのご挨拶文を読んで一瞬目が点になった。
以下抜粋。

私は、常に与えられた仕事を全力で精一杯やることを信条としてまいりました。
これからも、我が身を省みることなく知識と経験を生かして国民のための仕事をしてまいりたいと決意しております。

省みない、即ち反省しないのである。
これには絶句w
もちろん、1秒後に「(我が身を)顧みない」の誤記、すなわち「自分の心身を気遣うことなく(公務に尽力する)」という意図であると気づいたのではあるが。

私は別に揚げ足取りがしたいわけではない。
この誤記は、この選挙グッズの制作担当者のチェックミス(もしくは語彙力の不足)によるものだろうが、人為である以上はそういうことも起こりうるわけで、与謝野氏がそういう不遜な心構えでいるとは思わない。(ただ、重要な選挙に際して、少々弛んでいるようには思う。)

問題にすべきは誤記などではなく、挨拶文そのものだ。
「与えられた仕事を全力でやることが信条」というのはどうしたことか。いったい誰から与えられた仕事なんだというのも大いなる疑問であるが、所与の仕事をこなしていれば良い時期でないことは明白であるところに、この宣言である。

いつまで高度経済成長期の気分でいるつもりか。一生懸命やれば結果は後からついてくる時代は、とっくの昔に終わっているのだ。昨今の日本社会の問題(と叫ばれているもの)は大概、経済成長に裏打ちされていた「未来は明るい」という素朴な信仰が崩壊したことに関係している。
であればこそ、与えられたレールをただ懸命に走るのではなく、私自身がどうしたいのか、その欲望を発露させることにようやく人々の目が向きだした時なのだ。そして、そのように自己を充実させる個人が構成する社会は、経済成長による価値の先延ばしに依存するのではなく、“今ここ”で幸福を感じられるものに変化する必要がある。そんな時勢に、従来型の「とにかく何でも一生懸命にやります!」的ノーテンキな体育会系宣誓をしてもらっても困る。

たかがビラの挨拶文にここまでツッコミを入れるのもどうかとも思った。
それでも、この期に及んでこういう無内容な挨拶文を平気で掲載してしまえる現状認識の程度の低さに呆れたのである。

久々に漱石に出遭う

千円札の話である。

会計時に財布から取り出したところ、違和感を覚えてそれと認識した。次の瞬間、英世を代わりに差し出したのであった。

現行の千円札より、すっきりした印象を受ける。
偽造防止技術の粋を集めた装飾も、そう思わせる理由の一つだろうが、一番は肖像画の頭髪だろう。

というわけで、漱石先生には引き出しに滞在してもらうことにする。

終わりから考えてみる

およそ2ヶ月ぶりの更新だ。
いろいろあったけれど、わたしは元気です。

なんてことは、誰も聞いちゃいない。

ちなみに、別に落ち込んだりはしていない。
しかし、会う人ごとに「痩せたね」と言われるものだから、久々に測ってみたところ体重が少し落ちていた。BMIはジョッキー並みだ。

ところで、タイトルどおり、私は物事をとかく終わりから考えてみる癖がある。
と言っても、得たい結果を思い描いて、それに向かっての行動プロセスを組み立てる・・・などという話では決してないことは、私の友人たる読者なら断るまでもないだろう。
私の考える「終わり」は、とりもなおさず「死」以外にない。

ひとは畢竟、返事がないただの屍になるのである。ならば目標など立てて努力するなど、バカバカしくてやっていられないと考えるのが道理。
と言っても、人間のあらゆる営為を否定しているわけではない。他人から見える努力堪忍も、当人には悦楽でありうる。目標志向の行為も、「目標に向かって進む」という一連のプロセスが快であるならば大いに結構なわけだ。私はただ、今ここではないどこかの未来に価値を置こうとする妄想者に、同時にその価値を他人に押し付け普遍性を担保しようとする狂信者の鼻先に、髑髏を突きつけたいだけなのだ。

と、私のマインドはどんな話題でも生きること全体の問題に拡大(あるいは牽強)させてしまうわけだが、「終わりから考える」という癖は、もっと日常的なレベルでも姿を見せることに先日気づいた。
私は買い物をするとき、その物を捨てる瞬間を想像しながら買っているのだ。
人がみな屍になるように、(消費し尽くすものでない限り)物もいつかは不要になるときがくる。来るべきその日を想像することで購買意欲が減退して、結局買わないまま帰宅することがままあったりする。

具体的に言うと、家具がまさにそうだ。
必要性がない限り、ちょっと気に入ったくらいでインテリアを買うなんてことはできない。いずれ飽きる日は必ず来る。そうすれば、それを忍びなく思いつつも、捨てる決断をしなければならない状況が生まれる。それを想像するだに切ないし、既に(私の頭の中で)ゴミとなったそれにお金を投じることも躊躇われるのだ。
あとは、ゴミの捨て方が即座に想像できないのもダメだ。たぶん粗大ゴミになるんだろうけど、粗大ゴミってどうやって出せばいいんだっけな、などと考え出すと捨てるのが面倒になって買わなくなる。

この癖のおかげで、私の辞書に衝動買いという単語はない。

ロッカーに海苔

全く訳が分からない。

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営利の壁

すごくしょうもない私的障壁の話。

人間の生には意味もクソもないという前提のもとで、社会活動をどう営みうるか。それは意味などという客観的基準への参照を必要としない、ただただ内発的動機でのみ成立しうる。ところが、内発性にのみ基づいて行動すると、社会的に不適合となる危険性が高い。というか、意識的に社会性への没入を試みなければ、大抵は陥穽にはまる。その陥落を回避するために、大多数の人々は外圧(社会性)を適当に受け止めつつ、内発性の発露を確保する。そうして終りなき日常をそれなりにうまく乗り切る。

要するにどういうことか。
ただ好きなことをやるしかないのだが、好きなことだけやっていると食っていけない。だから、日々困らない程度にはお金を稼ぐために働いて、その残余の時間を、好きなことに充てる。
まぁ、通常はそれでいいのだろう。「好きなことをやることが大切」という意識が一般化しただけでも、とりあえずは良しとすべきだ。

ところが、それで納得できないのが私であって、内発性に相反する限りにおいて一切の社会性に従うことが嫌なのだ。そう、原理主義者。
ゆえに営利という、定義上社会性への適合を要求される行為にうまくコミットできない。お金儲けが嫌いということなのだが、それは社会性への適合要求に対する強烈な拒絶感である。ところが、本当に自在に内発性を発露させられる人間であれば、社会性への適合要求にまともに向き合うことなしに時に適合し時に不適合するだろう。適合するポイントを見つけられれば、それこそ「好きなことを仕事にする」が実現するときであろうが、果たしてそれはありうるのか。
この問いへの答えは別に考えるとして、ところで、なぜ私は社会性への適合要求に向き合ってしまうのか。社会性をバカにして、内発性にこそ価値を置く(というこの表現自体が倒錯的だが)私が、なぜ社会性への適合要求を無視することなくマジメに捉えてしまうのか。それはやはり不適合への怖れゆえであり、即ち社会性の奉戴である。
嗚呼、何という倒錯!

この文章は考えながら書いてきたが、最近しきりと考えていた「ニルヴァーナと公共性」について一つの答えが出たような気がする。謂わば「釈尊が悟りを開いた後になぜ“態々”下山したか」というテーマだ。
これについては、そのうち書くかもしれない。これまでの文章の流れが精確に追えていれば、そんな命題を立てるのがまず倒錯的だということが分かる気もするが、読んでも分からないな、これは。なんたって、ひどい悪文!

でもまぁ、素直に垂れ流したいので、垂れ流しとく。
非営利的な内発的活動した後に想起されたことどもについて。

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