第4の座標系
久々に漱石に出遭う
- 2009-08-26 (水)
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千円札の話である。
会計時に財布から取り出したところ、違和感を覚えてそれと認識した。次の瞬間、英世を代わりに差し出したのであった。
現行の千円札より、すっきりした印象を受ける。
偽造防止技術の粋を集めた装飾も、そう思わせる理由の一つだろうが、一番は肖像画の頭髪だろう。
というわけで、漱石先生には引き出しに滞在してもらうことにする。
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終わりから考えてみる
- 2009-08-24 (月)
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およそ2ヶ月ぶりの更新だ。
いろいろあったけれど、わたしは元気です。
なんてことは、誰も聞いちゃいない。
ちなみに、別に落ち込んだりはしていない。
しかし、会う人ごとに「痩せたね」と言われるものだから、久々に測ってみたところ体重が少し落ちていた。BMIはジョッキー並みだ。
ところで、タイトルどおり、私は物事をとかく終わりから考えてみる癖がある。
と言っても、得たい結果を思い描いて、それに向かっての行動プロセスを組み立てる・・・などという話では決してないことは、私の友人たる読者なら断るまでもないだろう。
私の考える「終わり」は、とりもなおさず「死」以外にない。
ひとは畢竟、返事がないただの屍になるのである。ならば目標など立てて努力するなど、バカバカしくてやっていられないと考えるのが道理。
と言っても、人間のあらゆる営為を否定しているわけではない。他人から見える努力堪忍も、当人には悦楽でありうる。目標志向の行為も、「目標に向かって進む」という一連のプロセスが快であるならば大いに結構なわけだ。私はただ、今ここではないどこかの未来に価値を置こうとする妄想者に、同時にその価値を他人に押し付け普遍性を担保しようとする狂信者の鼻先に、髑髏を突きつけたいだけなのだ。
と、私のマインドはどんな話題でも生きること全体の問題に拡大(あるいは牽強)させてしまうわけだが、「終わりから考える」という癖は、もっと日常的なレベルでも姿を見せることに先日気づいた。
私は買い物をするとき、その物を捨てる瞬間を想像しながら買っているのだ。
人がみな屍になるように、(消費し尽くすものでない限り)物もいつかは不要になるときがくる。来るべきその日を想像することで購買意欲が減退して、結局買わないまま帰宅することがままあったりする。
具体的に言うと、家具がまさにそうだ。
必要性がない限り、ちょっと気に入ったくらいでインテリアを買うなんてことはできない。いずれ飽きる日は必ず来る。そうすれば、それを忍びなく思いつつも、捨てる決断をしなければならない状況が生まれる。それを想像するだに切ないし、既に(私の頭の中で)ゴミとなったそれにお金を投じることも躊躇われるのだ。
あとは、ゴミの捨て方が即座に想像できないのもダメだ。たぶん粗大ゴミになるんだろうけど、粗大ゴミってどうやって出せばいいんだっけな、などと考え出すと捨てるのが面倒になって買わなくなる。
この癖のおかげで、私の辞書に衝動買いという単語はない。
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営利の壁
- 2009-06-21 (日)
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すごくしょうもない私的障壁の話。
人間の生には意味もクソもないという前提のもとで、社会活動をどう営みうるか。それは意味などという客観的基準への参照を必要としない、ただただ内発的動機でのみ成立しうる。ところが、内発性にのみ基づいて行動すると、社会的に不適合となる危険性が高い。というか、意識的に社会性への没入を試みなければ、大抵は陥穽にはまる。その陥落を回避するために、大多数の人々は外圧(社会性)を適当に受け止めつつ、内発性の発露を確保する。そうして終りなき日常をそれなりにうまく乗り切る。
要するにどういうことか。
ただ好きなことをやるしかないのだが、好きなことだけやっていると食っていけない。だから、日々困らない程度にはお金を稼ぐために働いて、その残余の時間を、好きなことに充てる。
まぁ、通常はそれでいいのだろう。「好きなことをやることが大切」という意識が一般化しただけでも、とりあえずは良しとすべきだ。
ところが、それで納得できないのが私であって、内発性に相反する限りにおいて一切の社会性に従うことが嫌なのだ。そう、原理主義者。
ゆえに営利という、定義上社会性への適合を要求される行為にうまくコミットできない。お金儲けが嫌いということなのだが、それは社会性への適合要求に対する強烈な拒絶感である。ところが、本当に自在に内発性を発露させられる人間であれば、社会性への適合要求にまともに向き合うことなしに時に適合し時に不適合するだろう。適合するポイントを見つけられれば、それこそ「好きなことを仕事にする」が実現するときであろうが、果たしてそれはありうるのか。
この問いへの答えは別に考えるとして、ところで、なぜ私は社会性への適合要求に向き合ってしまうのか。社会性をバカにして、内発性にこそ価値を置く(というこの表現自体が倒錯的だが)私が、なぜ社会性への適合要求を無視することなくマジメに捉えてしまうのか。それはやはり不適合への怖れゆえであり、即ち社会性の奉戴である。
嗚呼、何という倒錯!
この文章は考えながら書いてきたが、最近しきりと考えていた「ニルヴァーナと公共性」について一つの答えが出たような気がする。謂わば「釈尊が悟りを開いた後になぜ“態々”下山したか」というテーマだ。
これについては、そのうち書くかもしれない。これまでの文章の流れが精確に追えていれば、そんな命題を立てるのがまず倒錯的だということが分かる気もするが、読んでも分からないな、これは。なんたって、ひどい悪文!
でもまぁ、素直に垂れ流したいので、垂れ流しとく。
非営利的な内発的活動した後に想起されたことどもについて。
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嘘つけww
- 2009-06-18 (木)
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素直に電気代節約だって言えよ。
じゃあ、アレだな。
環境に配慮して清掃活動の頻度を落としています。
とか
環境に配慮して労働資源の活用を縮小しています。
とか言えちゃうわけだな。
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枠の中に埋没して、その不全感を他人にも強制する害悪人
- 2009-06-18 (木)
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オレはコレだけやってんだ、だからお前もやれ!系の人のブログが絶賛炎上中らしい。
問題は以下の記事。
未来予想株式会社COO 庄子素史の日記 – 権利ばかり主張して義務を果たさない無能人
でもチキンなことに既に削除済み。
でもでも、しっかり記事内容は別の場所に残っている。→権利ばかり主張して義務を果たさない無能人
そして、火付け役になった記事が「解雇されたので起業します | Kousyoublog」
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