第4の座標系
マイブーム
- 2009-06-06 (土)
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クオリティの低さに定評のあるYahoo!知恵袋でマジレスすること。
出没してみているのは、人生相談系、恋愛相談系、就職相談系の質問。まれに実存的問いに近接する質問もあるものの、基本的には没入的質問で溢れかえっている。
これはリアルでも実感済みだが、没入者の質問にマジレスしようとすると、まずその質問自体の不適切性の指摘から始まる。
たとえば「○○社で営業で就職したいが、どうすれよいか」という問いには、お前は本当にそれがしたいのか、ただ就職しなければならないから適当な「なりたいもの」を探してきているだけじゃないか、という質問者自身の錯誤の訂正から始めなければならない。目的を達成する手段を問うていても、その目的の正当性に揺らぎが感じられる場合、質問に素直に答えてはいられない。
他によく見受けられるのは、「やればいいじゃん」の一言で済んでしまうような質問だ。特に恋愛相談系に多い。
具体的な解決策など必要はなく、恐怖心をほぐして背中を押してやるしかない。何もかもがうまくいく夢のような方法が提示されることを期待している場合もあるので、「やるしかないでしょ」も併用しながら答える必要がある。
没入者にマジレスをすることは、このようにイライラするほどに面倒なのだが、何と言っても最大の問題は質問者がマジレスの価値を認識できないことにある。つまり、当人の実存に迫る道を開くような回答ではなく、困っている自分を馴合い的に承認してくれる回答をベストだと感じてしまうのだ。マトモであるが故に痛みを伴う回答に対し、人は耳を塞ぐ傾向にある。
で、何で私がそんな不毛なことをしているかというと、没入者の相談に応じる場合にはどのように話を展開していけば、実りなき慰めに堕することなく相手に納得してもらえるかを検証してみるためだ。
しかしながら、マジレスするには、Yahoo!知恵袋はシステム上やりとりが表層的にならざるを得ない困難さがある。そんな暇でもないので、このマイブームは一瞬で終了することにする。
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上野で会えなかった
- 2009-06-05 (金)
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昨日、阿修羅展を観るために上野の東京国立博物館まで行ってきた。
ところが、平日にもかかわらず、開催期間終了間際ということもあって100分待ちだったため、ばからしくなったので入らなかった。俺はディズニーランドに来たんじゃねえんだ。
代わりにといっては何だが、国立科学博物館で大恐竜展を観て来た。待ち時間ゼロ分。
子供の頃に恐竜に興味を持っていたのを思い出しながら観覧した。復元骨格を見ながら「こいつら本当に生きていたんだろうか」と、そんなことを空想しているとワクワクする。そんなワクワクと共に、1億年もの時の流れに対し数十年の生涯を費やして研究に没頭している人たちは、阿修羅を作り出してきたような人間の実存への苦悩に足を取られることもないのだろうか。んなこともないか。
あちらが鑑賞であれば、こちらは観賞なので比較するわけにもいかないのだが、歳月で言えばこちらの方が阿修羅より10万倍以上も古いんだぜ。
阿修羅はそのうち興福寺で観ればいい。
と思ったけど、7月から福岡で開催するじゃないか。なんだ帰省したときに観に行ける。たぶん混雑具合も東京よりはマシだろう。
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ショウガの辛さが効いた「n.e.o(ネオ)プレミアムジンジャーエール」を飲んでみた
- 2009-03-19 (木)
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GIGAZINEの濃厚な味付けでほかのジンジャーエールが水のように感じられる「n.e.o(ネオ)プレミアムジンジャーエール」を試飲してみたを読んで、ジンジャーエール好きとしては看過できないと思い、試飲してみた。
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世界を幸福にするために
- 2009-03-15 (日)
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世界を完全なる幸福で満たそうと考えたとき、人に目標達成を説くことはできないではないか。
なぜ今わたしがここにいるのか理解できないように、世界は理不尽にできているのだから、ある結果を志向したところで挫折しないことなど絶対に保証できない。そうであれば、目標達成を称揚・奨励すればするほど、そうならなかった者に不幸の烙印を押すことになる。
世界が理不尽であるからこそ、全ての人は救えない、だから出来る限りのことをしているのだ、という意見もある。尤もではあるが、それが幸福を志向していながら、不幸を生産しているという定義矛盾を孕んでいる以上、私はやはりこれらの活動に諸手を挙げて賛同することは断じてできない。
目標が客観的意味を持つそれではなく、内発的衝動の発動を指しているとしても、彼らの説くことが結果の成就であるならば、私はこれらの言説に疑義を投げかけ続ける。いや、固定的な結果でなく、内発的衝動の発動それ自体の推奨であるとしても、推奨対象として固定させてしまう以上、是とすることはできない。
もっと平易に言おう。「こうすればいいよ」「こうしよう」「こうしなさい」という肯定言説は、常に孕んでいるはずの「そうできなかった」可能性を否定している以上、全面肯定はできない。この言説で留まっては、世界を幸福にするということから既に逸脱しているのだ。私には「そうしてもしなくてもいいよ」という現状肯定しか残されていないように思われる。
肯定言説を述べる人もこの矛盾を承知の上であることは、先ごろ実感としてよく分かった。確かに、ひとにはそこまでしかできないのかもしれない。
しかし、私にはその妥協を許容することはできない。だから、「それでも」を言う。言い続ける・・・「こうすればいいよ」で人々を励ます人々は、それでよい。それで美しいと思う。私はただ世界の幸福を追求して、「でも、そうでなくてもいい」と叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ・・・
それには今の私では、少々パワー不足だろう。
「課題解決とか、目標達成とかくだらねぇ(笑)」と言いながら、やっていくのだから相当厳しい。
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