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ポストモダン
ポスト・モダンの条件
- 2008-02-28 (木)
- レビュー
20世紀後半から盛んに議論が展開された「ポスト・モダン」という単語を定義した最初の書。大学協議会へ提出したものであり、教育機関へ向けたレポートの形式を取っている。
近代に入り、理性を特権化することによって大きな発展を遂げた科学であるが、その科学はそれ自体では正当性を持ちえないために、物語を必要とする。だが科学はその性質ゆえに、科学を裏付けていた物語を非科学的なものとして排除せざるを得ない。かくして、近代がそもそも内在していた欠陥が表面化して、大きな物語は崩壊した。
大きな物語が機能しなくなった、すなわち社会の構成員全体が共有する価値体系が存在しない状態がポスト・モダンと呼ばれる。
この事態に至って、知の正当化は遂行性とコンセンサスによってなされてしまう、とリオタールは述べる。限りなく砕いて言えば、「儲かるのかどうか」と「みんなの合意が取れるかどうか」という二つの価値基準に集約されてしまうということだ。
それでは多様な可能性が暴力的に抹殺されてしまうと批判する彼は、そうではない別の正当化の方法の提示を試みる。それが、パラロジーとして提唱されている。
大きな物語が崩壊し、テロル的な正当化がなされるまでの描写はいい。すなわち、ポスト・モダンの全体像を把握するには良い書だと思う。ただ、もっと分かり易い表現ができるような気はする。というのも、それほど難解なことを言ってはいないのに理解するための咀嚼がかなり必要に感じたため。
若干の違和感が残るのは、最終的な結論である。差異を受容することにより、新しいアイデアが発生する、そのこと自体をよしとする正当化の方法を彼は述べる。言いたいことはわかる、彼の感性もたぶん理解できる。
だが、それはやはり自己正当化の物語に他ならないのではないだろうか。脱正当化し続けることこそ、正当化を保留し続けることこそ、われわれが取るべき道ではないのだろうか。
もっとも、確定的な結論を提出することを回避することがポスト・モダン的だったりはする。もどかしい。
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ウェブ社会の思想
- 2008-02-19 (火)
- レビュー
インターネットが普及し、ウェブ上で情報をやり取りすることが当たり前になったこの社会では、人々の生活がどのように変化するかを展望する書。技術的な側面から観察した実際的な生活の変容を考察するのではなく、環境の変化に伴って発生する人々の意識の変化を考察しているのが特徴。
著者は、いつでもどこでもウェブの世界に接続可能になるという現在のウェブ社会の潮流を観察することで、バーチャルな「私」が私自身の意志や欲望を先行するかたちで現出するという現象を捉える。これを以って、ウェブに接続されることで、我々の未来の可能性が閉じられていくことを懸念するのが本書の問題意識である。
この指摘はまさに、「大きな物語」が失墜したポストモダンな社会を我々はいかに生きるべきか、という重要な問いかけを含んでいる。そうでありながら、最終的にこの問いかけの着地点を、社会性へ回収するところに設置しており、前期近代以前のあまりに凡庸なモダニズムの視点で締めくくられてしまっている。
ウェブに関する社会学的評論に、とかく当人の個人的期待や反感を反映した論調が多い中で、本書は冷静な筆致であるとは言える。
冷静ではあるが、予定調和的な価値基準によるその視点は、価値を共有しない人々が生きるウェブ社会を批評するにはあまりに凡庸すぎる。
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存在論的、郵便的
- 2008-01-28 (月)
- レビュー
レジュメ作成・発表のために精読。構成がいまひとつ系統立っていないため、読み通すのに随分と骨が折れたが、読んでいる最中はとてもワクワクした。
脱構築の生みの親であるジャック・デリダの思想を、「郵便=誤配システム」という隠喩系を中心に据えて読み解こうとするもの。だが、「読み解こう」とする行為そのものが脱構築されるべきものに該当するという自家撞着にからめとられて、結論を導き出せずに終わっている。
本書での極めて論理的なデリダの読解を追っていけば、この結末はうすうす感じ取れるものではある。一見したところ失敗とも思える唐突な締めくくりではあるが、この脱臼として脱稿を脱構築の実践であると、私はパフォーマティブに受け取ろう。
この本を読んで以来、「脱構築」という単語がしきりに私の頭の中を去来する。夢(無意識)にまで響いてくるほどで、まさに彼方からの呼び声(アペル)である・・・これを機に、デリダを読み深めようと思う。
ときに、彼がこの書を記したのが、まさに今の私の年齢であったことに驚嘆する。そして、幾ばくか焦燥を感じた。
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動物化するポストモダン
- 2007-07-11 (水)
- レビュー
私は今まで自分をオタクの端くれであると自覚してきたが、そうではないことが分かった。少なくとも、私は(私が属すべき1980年前後生まれで構成される第三世代の)ポストモダンなオタクではないということが、この本を読んで明晰に分かった。
私はガンダムオタクを自称しているが、モビルスーツの個々のモデルやキャラクターの細かい設定にはそれほど興味はない。私がガンダムに求めているのは、ニュータイプを軸とした富野由悠季の作り出した世界観である。人間とは何か、どう生きるべきか、という価値観に興味を持ち、この社会について論じるときもしきりにその世界観を参照していたりする。
それはまさに、本書で言うところの「大きな物語」の消費である。近代において機能してきた大きな物語は既に崩れたことには明晰に気づいているが、私はたとえばガンダムにその大きな物語に替わる物語を求めようとしていたのである。
その意味で、私のオタク性は第一世代(1970年前後生まれ)のオタクに近いと言えるかもしれない。
一方で、ポストモダンなオタクは大きな物語を求めることをしない、と東氏は言う。
彼らは快楽的感情を起こさせる設定をデータベース化し、そのデータベースから設定を組み合わせることで作り出されたシュミラークルに没入して楽しみを得る。本書の例示を使って分かりやすく言うなら、彼らは自分の「萌え要素」をデータベースとして分類整理し、アニメやゲームの作品中ではその萌え要素に従って萌えるのである。彼らは、何に萌えるのかを分析できるほど冷静であり、それが虚構であると知っている。だが、それでいながらその萌えに本気で没入できるのである。
この論は、私のオタクの友人たちを観察していれば実に良く分かる。彼らは現実と虚構を取り違えるほど倒錯してはいない。むしろ、二次元に没入していることについて、自虐的なジョークをかますくらい冷静に見つめている。
さらに私の実体験と照らし合わせてみると、現実的には意味がないことだと分かっていながら、ごく自然にそれらのサブカルチャーを楽しむことが出来るというオタクの姿にも納得がいく。限りなく変わりばえのしない特撮の戦隊モノやロボアニメを好んで視聴する彼らの傾向がまさにそれである。
そして、このポストモダンの性質を、私は持ち合わせてはいないことを理解できたのである。
このように、本書で書かれているオタクの特徴は、私が周囲に豊富にいるオタクたちの観察結果と合致しており、非常に興味深い。オタクの理解と研究をするための有効な理論モデルを得られる一冊だ。
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